かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

つづ井さんの処方箋

» つづ井さんは寝た子を起こしてしまったかもしれない ──地獄は地獄のままでありつづけるという話 - on my own http://525600.hatenablog.jp/entry/2019/09/12/221015

  (引用)

自分で自分を否定する日々から脱したところで、そこはともすれば、元いた地獄とそう変わらない、また別の地獄かもしれないということに。

私が言いたいのは、現代日本社会というのは単に独身オタク女性が迫害される社会なのではなく、自分の選んだ人生を自分で肯定できない人のたくさんいる社会ということだ。さらに、自分の人生は本当にこれでよかったのか、確信を持てない人たちは、自分と違う人生を選んだ人を否定することで、自分の人生を肯定しようとする。

私たちには選択肢が与えられている。ことになっている。男を愛するも女も愛するも自由。結婚するもしないも自由。子どもを産むも産まないも自由。
それでも「結婚出産」=「問答無用で良いこと、素晴らしいこと」という価値観は未だ保存されたままでいる。

「あなたにも選択肢が与えられていたのに。きちんと考えて行動できなかった、この状況を予測できなかったあなたが悪い」と突き放す社会であるなら、もしかするとそこは単に2Pカラーの地獄ではないか?
 
引用は以上。ひきこもり当事者の生きづらさについての論文をちょうど読んだところで、その生きづらさを形作るものに性規範が影響しているにもかかわらずひきこもりは個人の問題として語られ、結果として性規範それ自体は温存され続ける、といったことが指摘されていた。筆者は次のように総括している。

「(ひきこもり)当事者を含めた我々が…規範に沿うかたちで個人的な経験や欲望を達成することを志向するならば、規範自体を問題とする視点は失われる。そして当事者の問題対処は社会変革よりも、むしろ日常生活の次元で実践される(規範に支えられた)個人的な欲望の実現に傾き、社会的な次元の問題状況は維持される。」(p.494、括弧内は自分)

この問題状況こそブログ筆者の「のい」さんの言う「地獄」なんだろうし、それは「自分で自分を否定する日々から脱したところで、そこはともすれば、元いた地獄とそう変わらない、また別の地獄かもしれない」生きづらさを作るのだろう。

論文筆者の伊藤は「ひきこもり」が「社会的に定義づけられたカテゴリーである」以上、当事者と非当事者は「境界が曖昧な『連続体』であり、…両者は『地続き』の存在」という認識を持っていて、これはのいさんの「地獄」と相当重なる部分がある。

自分の生き方を否定するのでも肯定するのでも、いや肯定すること自体を称揚するのですらもなく、「人生の回答編」探しに追われるのでもなく、自分の生き方を他者に否定されるいわれはないのだという誇りを持つことはできるんだよ、というのが、のいさんがつづ井さんから学びとった処方箋なのだと思う。

(cf.)伊藤康貴『「ひきこもり」と親密な関係 生きづらさの語りにみる性規範』社会学評論 66巻4号、2016年