かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「ニッポンのジレンマ」を視聴して大学生活を思う。

母親がNHKの「日本のジレンマ」という番組をたまたま録画していたらしく、両親と一緒に視聴した。80年代生まれの論客6人を迎え、「幸福に働くとはなにか」について、「シェア」「ノマド」などのキーワードを出しながら1時間半の議論がされていた。80年代生まれの兄を持つ、90年代生まれのボクにとって、彼らは非常に若々しく見えた。ブロガーのイケダハヤト「兄さん」、社会学者の古市梨揮「兄さん」と呼んだほうがいいぐらい。 ボクが一番惹かれたのが古市さん。彼は研究員であったり社員であったり(もうひとつは忘れた)しながら、自分はフリーターですよという。やりたい仕事をする、やりたいなにかをしよう。利潤を追求する資本主義の原則に則るのではなく、楽しく働きたい、暮らしたい、その暮らしが続くといいね、という考え方にはボクもすごく同意。しかし同時に、(指摘したのはイケダさんだったか)それが何かの拍子にフッと終わってしまう可能性が否定できない恐怖感。それもまたリスクとして感覚として理解できる。 そも、ボクは小さい頃からなんとなしに勉強はそこそこできていて、高校生大学生も自動的に入って、仕事は自由にできる、またはしなくても生きていけるものだとばかり想像していた。なにかにための手段を知らなかったし知ろうとせず、それは向こうから自動的にやってくる知識なんだとばかり思い込んでいた。ようは、必要な事柄をこなして生きていけば、おのずと自分にみあう立場がやってきて、その処理さえうまくできればあとは自分の好きなことをやっていていい状態がずっと続いていく、という考え方。今の自分はやりたい研究もやりたい仕事もあるけれど、きっと今の社会ではかなわないし、自分で古市さんのようなスタイルを作らないといけない。 特定の企業に就職すると、おそらく副業は不可、職種によっては自由時間もままならず、「ただその仕事一筋」が賛美されるのだろう。それはいい。ボクが嫌なのは、それによって会社のコミュニティのみに束縛されかねないということ。他のコミュニティに所属しうるチャンスを失いかねず、ボクはそれがほんとうに惜しくてならない。きっとそんな気持ちが、ボクがSEを目指すことを躊躇わせてる。サークルや部活動に所属しない理由もこれだと思う。オープンスペースな自主ゼミのガバナンス研究会のように、人をコミュニティに束縛しない場が一番性に合っていて、居心地がいい。ボクはサークルや部活動で大学の勉強がままらない友人を不幸だと思ってしまうことがある。アルバイトもおそらくそうだろう。けしてそれら、彼らの否定ではないが、しかし時間的・経済的に余裕が少ない今の大学生のどれだけが、充実した学生生活を送っているのだろうか。 いや、大学生のうちにこれをやりたい!と命題的に思うなら打ち込んでいただいてけっこう。しかしボクにはそれがご飯のふりかけのようにしか見えないし、眼科へ行くべきだろう。でもね、ご飯ってなにもかけずに食べてもおいしいんだよ、というのはわかってほしい。「味がしなさそう」っていう視線は遠慮してもらいたい。 …という感想を持ったのが今日のハイライト。