かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

グループワークのフリーライダー発生構造が複雑すぎ死にたい。

ボクは、すべてのメンバーが一定量以上の貢献をしなければグループワークとして成り立たないと考えていた。それぞれが得意な分野の知識・テクニックを発揮して、プロジェクトの成功の要因を構成することで、メンバーに自信を与えることができると思うからだ。しかし、それは貢献した事実を再確認させて満足を与えるだけに過ぎず、本人のスキル自体が成長するとも限らないことに、最近気付いた。ボクの立場はグループワークの授業を受ける学生視点のご都合主義だったのだ。

 

学生は(もちろんグループとしての評価も存在するが、)全員が何らかの作業に貢献して「私はこういう作業をして、このプロジェクトの役に立ちました!」と作業報告に無理やり役割を捏造して記述する。貢献内容が記述されていないメンバーは、あたかも「貢献したくなかった」ように評価側に捉えられることを恐れるからだ。ボクの立場は、そこをゴリ押ししてメンバーに強制労働を強いるような考え方だった。

 

では、作業をしたくないメンバーは作業をサボってもいいのだろうか。ボクは「サボる事を表明すること」と「評価を享受できるかどうかメンバーと合意をとること」を行えば、構わないと思う。なぜなら、グループ自体が単位取得の必要性に迫られて組まれているからだ。作業内容も自分達が欲したものではなく授業側から与えられているものなので、そもそも授業のグループワークは基本的に「やりたくないこと」なのだ。だから、作業をしたくないメンバーは必然的に発生する。

 

学生の本当のジレンマはここからである。本当は作業したくないけれど、サボると他のやる気のあるメンバーに迷惑をかける。だから、自分から司会をしたり役割配分や作業の進捗を確認したりする気が引ける。この意識こそがグループワークの停滞を招き、自身もメンバーも「なんとなくできた成果物」にフリーライドしてしまうのだ…。このなんとも言えない感覚は誰でも味わったことがあるだろうし、なかなか言葉では表現できない故の気持ち悪さがある。

 

解決法を書かないとオチがつかないと思うので書こうとしたけれど、それはものすごくストイックで非人間的な方法で良心の呵責が発生するので、書けない。ボクはそこまでやろうと思う動機が存在しないし、なにより理想論すぎて書きたくない。ごめんなさい。