かすてらすねお。(hateblo)

見聞録的ななにか。

『およげ!たいやきくん』の歌詞が意味深だった。

関係が面倒なので、歌詞はこのサイト(goo音楽)で。

といっても書く過程で書かざるをえない。

 

 『およげ!たいやきくん』は自由を求めたたいやきくんが遭遇する現実と自己再認識の過程をドラマチックに描いた歌曲作品である。毎日鉄板の上で焼かれるたいやきくんはおじさんと衝突して海に逃げ込み、自由とリスクにほだされる。そして、空腹に負けて釣り針に飛びつき最後には釣り人に食べられてしまうというシナリオである。一見するとなんでもないが、その背景に存在する意味深長なメッセージとストーリーが浮かび上がる。

 

「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」

「ある日僕は店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込んだのさ」

機械的生産手段としての労働者である「たいやきくん」は日々の労働に嫌悪していた。ある日彼は雇用者である「おじさん」と衝突し、それまでの労働生活を脱出して俗社会の「海」に逃げ込む。

 

「初めて泳いだ海の底 とっても気持ちがいいもんだ」

「お腹のアンコが重いけど海は広いぜ心が弾む」

 「桃色珊瑚が手を振って僕の泳ぎを眺めていたよ」

 ここで気がつくのが「初めて泳いだ海の底」という言葉である。おそらく「たいやきくん」は本能的に、または知識として海に逃げ込める事を知っていたのだ。しかも、海の「底」とわざわざあるので社会の暗部としてもとれる。「桃色珊瑚が手を振って」とは、まるで風俗店のキャッチのようだ。つまり、海全体を人間社会とした時に、海の底は日常生活では立ち入らない俗の領域を指し示しているのだ。海の底に行ったことがなかった「たいやきくん」は、真面目な性格であったと思われる。

 もうひとつ、「お腹のアンコが重い」という描写は、「たいやきくん」が抱える身体的異常、つまり職業病か持病のようなものを指し示しているように感じる。労働者としての側面を考えるならば、前者が考察として適切ではないだろうか。

 

 「毎日毎日楽しい事ばかり 難破船が僕の住処さ」

「時々サメに虐められるけど そんときゃそうさ逃げるのさ」

 よく考えてみると「たいやきくん」は住所不定なのか? というか、海社会では住所という概念があるのだろうか……。俗社会をうろついているのだから、住居も何もないだろうけれど、「難破船」という言葉はホームレスをイメージさせられる。「サメ」とは元々そこを住処にしていた他のホームレスか、治安警察だろう。社会の暗部に逃げるリスクが描写されている。

 

「一日泳げば腹ペコさ 目玉もクルクル回っちゃう」

「たまにはエビでも喰わなけりゃ塩水ばかりじゃふやけてしまう」

 食の不安と欲求のことだろう。「エビ」と聞くと贅沢なイメージがあるが、「海老で鯛を釣る」という格言から、「エビのようにたいした食料でなくてもいいから」という意識が感じ取れる。

 

 「岩場の陰から喰い付けばそれは小さな釣り針だった」

「どんなにどんなにもがいても針が喉から取れないよ」

 「釣り針」は誘惑と危険の象徴であり、「たいやきくん」は飛びついてしまうが、一度引っ掛かるとまったく取れないし逃げられない。ここではおそらく犯罪の誘惑であり、もがいても取れないのは手錠だろう。不思議な事に痛覚の描写が無い点も納得していただけるのでは。

 

「浜辺で見知らぬおじさんが僕を釣り上げびっくりしてた」

「おじさん唾を飲み込んで僕をうまそに食べたのさ」

よく分からないのが釣り人のおじさんである。ただ釣りをしていたのであって、「たいやきくん」が目的だったのではない。たまたま釣れたのが「たいやきくん」であり、そこで一般的な魚と「たいやきくん」の差を発見したことに驚いたのだ。この釣り人のおじさんの存在が、ストーリーの組立をよく分からなくする。ただ、「たいやきくん」が異常であることだけが分かる。

 

 「やっぱり僕はタイヤキさ 少し焦げあるタイヤキさ」

 本来「おじさん唾を~」の部分の前に入っている歌詞である。釣り上げたおじさんのびっくりした様子から、自分がたいやきであることを自己再認識したのだろう。最終的に食べられるところで歌は終わる。もともとの労働生活から抜けだした者は、意図せずバッドエンドを迎えてしまうということなのだろうか。そもそもバッドエンドだったのだろうか。労働生活の方が幸せだったのだろうか。

 

 ここまで考えると、レコード売り上げギネスというのもうなずけないか。もちろん想像の範囲ではあるが、印象深い歌詞からストーリーをイメージできる『およげ!たいやきくん』が何らかの比喩を持たないということはないだろう。