かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

ハードを殺して二次元キャラクターは生きられない。

齋藤孝『読書力』を読みました。

内容の紹介

 当時42歳の明大文学部助教の人が「若者の読書離れ」に対する憂いと読書の役割を熱弁している。文系っぽい言葉のきつさが印象的。一方で、読書が筆者の人間的要素の形成に大きな役割を果たしている事も理解できなくない。読み進めながら気になったのは、事実と判断を混同していそうな記述がちらちら見られたことで、調査に対する意識が甘そうだなと思った。

 しかしただ声高に読書が素晴らしいと叫ぶだけでなく、読書を生活スタイルとして、またコミュニケーションの道具として馴染ませるための建設的な方法をいくつも提案している点に関心した。序論・Ⅰ章が本人の読書の熱意の表れであり、Ⅱ・Ⅲ章が具体的提案だと思えばいい。

 

ここからは派生した感想。長文。というかメイン。

本の何を消費する?本のどこに登場人物を想像する?

 筆者は読書が組み込まれた生活スタイルを体験しているゆえに、文庫本をいつも携帯し、暇な時にはめくって読むことを奨めている。線を引いたり印をつけたりすることも奨めている。きっと当時は一度買った物を再び売ることが無いから、本と一生付き合っていくのが基本姿勢だったんだろう(話を進める便宜上、純文学や私小説だと思ってほしい)。

 しかし、本を極めて崇高なものとして大切にする扱い方も現れている(ここでボクは萌え系の漫画やライトノベルをイメージしている)。特定のジャンルや作家のマニアによっては、同じ本を複数冊購入して「観賞用」「布教用」「保存用」のように扱う。熱心な人は帯や中に挟まっている広告・はがきですらとっておくかもしれない。そうした人々の本を乱雑に扱うことは、もってのほかだろう。

 ボクはそうした人々の存在を知っていたので、筆者の訴える読書スタイルとはかけ離れているなという印象を抱いた。ただ、それは筆者のいう「読書」の目的を同じくしてかけ離れているわけではないと思った。収集家のそれは別の志向のように感じられたので、ちょっとそっちの考察がしたい。では、筆者とマニア達の読書の何が違うのかを考えてみよう。

ハードを殺して二次元のキャラクターは生きられない。

 ボクの考えは、まず読書を楽しむということを、ソフトの面(文章で構成されるすべて)とハードの面(本の手触り、におい、視覚的要素)に分離する。そしてマニア達にとっては、ハードはソフトの干渉領域であるということであり、筆者においてはそれがないということである。マニア達にとっては表紙や紙の手触りは本の内容物が干渉しうる領域(≒聖域)であり、その本をたとえ表面上だとしてハードを乱雑に扱ったとしても、彼らにとっては作品の冒涜と受け取れるのである。

 もちろん、純文学・私小説を読んでいる人でも本を折り曲げられたら怒る人は怒る。しかし、何が折り曲げられたかについて決定的に異なる部分が存在するとボクは思う。大塚英志という人が、(純文学・)私小説と(ライトノベルのような)キャラクター小説の違いについて、前者は登場人物の視点が人間的、後者はキャラクター的だと言っている。まだこの時点では、折り曲げられて怒る理由として等価である。

 ここにボクはキャラクターが「二次元」の存在であることが最も重要だと考えている。「二次元」とはサブカルチャーの世界の用語であり、紙やディスプレイといった平面上に表現される世界を一般に指すとされている。マニア達にとって、キャラクターとは本の紙という二次元に存在し、生きている。本を折り曲げるということは、キャラクターとしての生を冒涜すると感ぜられるのである。

 では、純文学・私小説の登場人物は「二次元」に存在しないのか?というと、そうではない。なぜなら、その登場人物は大塚の分類に依拠しながら実に「人間的」な存在として解釈でき、本の外部でさえ存在可能性が保たれている「三次元」としても振る舞えるからである。折り曲げても彼らは「三次元」の想像世界のどこかに生存し続けるのである。「二次元」であるキャラクターには、それができない。けしてハードを犯してはならないほどに、紙媒体に依存した存在なのである。マニアはそのような感覚を持って本と向き合っているのではないだろうか?

 

とまあ

 この文章の卑怯なところは、この筆者(齋藤さん)は本来この議論に関係ないのに「筆者筆者」と代表者のように押し出しちゃってるところで、書いた後から「あーこれどーしよ」ってなった。本当は書評書くつもりだったんだけど。

 ただ、「二次元」という言葉をいつかどうにかして自分の言葉で咀嚼してやりたいという気持ちもあったので、内心とてもスカッとしてる。