かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

ユーザビリティから考察する歌の作曲者倫理

作曲者は歌の歌いやすさを心掛けるべきか

「ユーザビリティ」は使いやすさ

ユーザビリティ」とはソフトウェアを評価する指標であり、ひとことで言えば「使いやすさ」である。GoogleChromeOperaのどちらがブラウザとして良いソフトウェアかどうかは、パッと見て使い方がすぐに理解できるか、Webページの表示がどれだけ速いか、などを基準に比較して(厳密には方法論が存在する)、使いやすいと思ったブラウザが「ユーザビリティが高い」ということになる。

歌にもユーザビリティはある

にユーザビリティを適用できるか。歌は「聴く」「歌う」または楽曲として「演奏する」ものである。歌にユーザビリティの概念を適用するならば、「聴きやすさ」「歌いやすさ」「演奏しやすさ」などがその基準になるだろう。性質上主観的な価値評価になりがちな基準を、いかに人間の特性を汲んで工学的な手法で分析するかが、いわゆる人間工学のひとつのテーマである。しかしボクが今日話題にしたいのは研究的なことではなくて、作曲者の技術者的側面についてだ。

メロディが高すぎる問題

カラオケに行った経験のある人なら分かるかもしれないけれど、特別うまい人でない限り、好きな歌のほとんどを歌える人はいない。歌えない原因は歌詞を覚えていないとか、メロディを覚えていないとか、歌詞が恥ずかしいとか色々あるけど、一番深刻なのはメロディの最高音が高すぎる事だと思う。わりと「仕方無い」事として処理されて無意識のうちに消え去る問題のように思える。最近では1小節に詰め込まれる歌詞が多くて歌えない以前に発音できない問題のある曲もある。

「聴き心地」と「歌い心地」はシーソー

このような問題を抱えた楽曲はボーカロイド作品に多く、『メルト』『炉心融解』などが思い当たる。むしろそこが作品としての魅力、ボカロの魅力であって短絡的にボカロをdisる意図はない。それこそ、同じ問題を抱えた楽曲はJ-POPにも存在する(J-POPあんまり知らないから察して)。

これらの曲は、「聴くこと」に注意が向けられた作品だったのかもしれない。聴いてもらう人にも一緒に歌ってもらえる歌がいいなら、当然歌いやすい音程を意識して作曲するはずである。ストレートに言ってしまえば、その歌手が歌えればどれだけ他の人が歌う時の難易度が高くなっても構わない、という妥協が作曲者から卑しくも忍ばれてしまう。しかし、この問題点自体については人生を通して一度も聞いた事がないし、先に述べたように問題意識に上がりにくい事なのかもしれない。

作曲者のスタイルとして心がける「歌のユーザビリティ」

おそらく、声を大にして問い掛けるには少し大げさなことかもしれないけど、歌とは聴くに満足するものなのか。歌えて満足するものなのか。作曲者は楽曲・歌曲の視聴者に向けて何を満足させるべきなのか。その姿勢は作曲スタイルとも言えるだろう。ボクも作曲をする身として、歌のユーザビリティについて考えながら悩んだ次第である。