かすてらすねお。(hateblo)

見聞録的ななにか。

ドラえもん的リアリズム考と現実構築

 

 ドラえもんは物心つく前から見ていたアニメのひとつだ。大長編映画は基本として短編作品もレンタルビデオをダビングしたVHSテープを繰り返し見た。新年・春休み・夏休み・クリスマス・大晦日の特番も8ミリの録画で何度も見た。ドラえもん的リアリズムで描かれる日常・科学・世界のパターンを内面化する作業は、幼いボクの外界への好奇心を満たすには十分すぎる材料だった。幼少期のボクは完璧なドラえもん原理主義者であり、ドラえもニズム信奉者であった。

 

 はじめ、ボクのなかのドラえもんユビキタスな存在で、遍在していた。正確に言うなら、ドラえもんの存在がドラえもん的世界に先行するのではなく、ドラえもん的世界が在って須くドラえもんも在るのだ。ユビキタス性はそのようにして保証される。のび太のような社会的弱者のメシアとして彼は現れ、ボクもまた弱者的キャラクターを重ね合わせては彼の到来を待ち望んだ。クリスマスになればサンタの登場を待つように、正月になれば床に寝て餅を食べながら今年もいいことがあると望んだ。そうすれば、机の引き出しがひとりでに開いて彼が現れてくれると信じた。

 しかし、歳を重ねるごとにその期待感は薄れていった。「東京都練馬区の"どこか"に彼はいて、静岡県浜松市に現れることなどありえない」という曖昧なロジックを用いて彼の同一性の保持に努めた。作品を丁寧に読み込んで現実をアップデートしていく作業こそがボクの心の安寧を保った。彼の存在しないボクの非日常的日常と彼の存在するのび太の超日常的非日常の両立は可能であるという解釈により、彼のいない日常に納得を試みた。

 数日後、よくよく考えたら昭和の象徴物(黒電話、国民的アイドル歌手など)が作品内に多数登場するので、もはや同時代性を追求する必要も失われた。ドラえもんの歴史的事実を現在の漫画をもって詳細に描き出す預言者こそが藤子・F・不二雄先生であると理解した。これは、作品の書き手の存在矛盾を打ち消す見事なアイデアだったはずだ。

 

 だが、事件は2008年の終わりと共に起きた。タイムマシンが発明されなかったのだ。1989年11月号の「小学五年生」「小学六年生」掲載短編「未来図書券」内において、「タイムマシンの発明時期は2008年」とはっきり言及されている。でも安心するがいい。タイムマシンは2008年に「事実として」発明されている。事実であるかどうかの条件について、ボクら人間が観測する必要など無い。超越的存在が確かに2008年にタイムマシンの発明を観測することにより、タイムマシンは事実として2008年に発明されるのであり、そう信ずる人に事実の内面化がなされるのである。

 

 ドラえもん的世界は21世紀に生きる人間として想像もつかない23世紀の未来まで伸びている。単純な作品知識データベースにリアリズムもへったくれもない。生活体験のうちに知識データベースをローカライズ(配置)することで、今を生きる世界にこそたしかなリアリズムの感触を得られるに違いないだろう。