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かすてらすねお。(hateblo)

見聞録的ななにか。

イメージが事実に先行する社会で - 被災地復興支援レポート

 

 Facebookに「何に目覚めたというわけでもなく」と前置きして、東北大地震の被災地のひとつ、宮城県亘理郡山元町に行ってきたと報告した。今回は町役場でお年寄りの方々が参加するパソコン教室のボランティアに先生として活動した。いわゆる被災地復興支援の一環としての活動である。

  実際に現地に行って考えたことを書くことも大切だけど、それよりも先に、今日は旅の目的のひとつである「記憶のフォーマット」についての話がしたい。あと、出来事をめぐるイメージとコミュニケーションの関係について話がしたい。

 

 震災直後、被災地の様子はネットを通じた情報しか知らなかった。初めの情報の少ない内は、Twitterに投稿された現地の写真やYoutubeにアップされた動画などを見ていたけど、そのうち見るのを止めた。現実感を伴う形で「正確に知った」ことにはならないからだ。上手に探せば大量の写真や動画は見つかるが、量は質をただちに保証しない。それで「ボクは被災地の様子が(多少なりとも)理解できた」などと考えるのは非常に危険だと思った。印象と事実の分離があやふやになっていた。そう思った時から、震災や復興の話題とはある程度の距離感を保とうとした。ネット上で言及もほとんどしなかったはずだ。

 だからこそ、今回の旅はボクにとって重要だった。ネットを通して出来上がった被災地の印象を取り払い、見たままの現実を刷り込む。「こう思っていたけど、実際はこうだった」の「こう思ってた」は多分にバイアスを含んでいる。自分の中にそうしたイメージを残したまま被災地に向かうのはとてもマズいと思った。「実際はこうだった」を第一の記憶としてフォーマットする事は、大切な作業のひとつだった。結局、ネット上の言及を控えていたのも、イメージの初期化に備えるためだったと思う。

 あらゆるイメージが事実に先行している。仲の良いTwitterのフォロワーさんとオフ会で初めて会う時、「リアルでは初対面」という表現を用いることがあるようだ。ネットでのコミュニケーションという記憶が、他人に関する記憶の前書きをしている。それはフェイクなどではないし、お互いの記憶の起点になっている。あるSFでは、赤の他人同士が見た夢がお互いに初めて会う未来の内容の正夢だったというお話がある。とても想像力豊かで不思議な出来事だけど、現実にそうなっている。

 

 ところで、3.11と同様に多くの人々に衝撃を与えた9.11について、どのように捉える向きがあったのか。哲学者の神崎繁氏は著書「ニーチェ―どうして同情してはいけないのか」の冒頭で9.11の目撃を振り返る。

(……)そして、それから二つのビルが倒壊するまで、リアルタイムで事件を「目撃」することになった。(……)それがいくら生々しいテレビ映像で示されても、何か現実感の希薄なもののように感じられるほどであった。

 だが冷静に振りかえってみれば、あのツインタワーへの旅客機の突入シーンと、それに引き続いて起こったビル崩壊の場面そのものが、何かすでに現実感を欠いているように感じられたのではなかったろうか。それは、心理的衝撃を和らげようとする代償反応だったのだろうか。なかでも、炎上するビルから逃げ場を失った人々が身を投げる映像は、それを目にする自分自身をいたたまれなくする一方、その一種の罪悪感を薄めるためなのか、自分の目にしているものが現実ではないと信じこませる機制が働いているかのように、妙に希薄に感じられたのは私だけのことだろうか。

― p.8

 一方、評論家の大塚英志氏は著書『キャラクター小説の作り方』で、9・11の映画的想像力を問題にしている。

キャラクター小説の作り方

キャラクター小説の作り方

 

(……)二〇〇三年の初頭におけるアメリカはイラクと戦争をしたくてひどくうずうずしている様子です。そういう具体的な戦闘の展開とは別に「9・11」を政治家やマスコミは最初から「戦争だ」と主張していました。

 しかし冷静に考えてみましょう 。飛行機をハイジャックして高層ビルに突っ込む、というのは「戦争」ではありません。ハイジャックという「犯罪」です。(……)

― p.263

 あの日、TVモニターで二機の飛行機が高層ビルに突っ込む様子を見て、あなたたちは「これはまるで映画みたい」と思いませんでしたか?そう感じたことをあえて言葉にすると亡くなった人たちに不謹慎な気がしますが、しかし、今回の「戦争」の本質を考えるにはこれは重要な手続きなのです。少なくともぼくは映画みたいだと感じました。

(中略)

 世界貿易センタービルが崩れ落ちる光景をハリウッド映画のように感じたぼくたちは、だからこそ心のどこかでこの事態がこの後もハリウッド映画のように推移することを期待してしまったのではなかったでしょうか。それが今回の「戦争」における本質だとぼくは考えます。

― p.265-p.267

 神崎氏がテレビ映像を現実世界/非現実世界の目で観察しているように思われる。それに対して、大塚氏は現実世界の内側の犯罪/戦争の目で捉えた。コンテンツで飽和する現在の日本人の想像力は後者であり、映画で見た戦争のイメージでテロ犯罪のイメージを上塗りしている。

 この時と同じように、3.11では日本沈没デイ・アフター・トゥモローで描かれるような津波、あるいはスマトラ沖地震の映像で見る限りの津波の記憶が、津波を直接見なかった日本人の想像力を補填した(もちろん、映画の演出で描かれる極端な津波が実際に日本に来たものに同様だ、などと言っているのではない)。当時のSNS台頭の勢いやマスメディアの報道もあって、そのイメージは事実の肩代わりになる共有体験に変化した。

 だから、ボクは誰かと震災の津波の話をするときに、「あの津波怖いね」などと言われて「本当だね」と心から同意できるか、はっきり言って自信がない。今後もし東海大地震が来たら、心からの好意でボランティアに来てくださる方々に津波の記憶について心配される時は、その心遣いを暖かく受け取るとともに、「ご心配掛けさして申し訳ないねえ」と言葉を返そうと決めている。

 

 山元町のお年寄りも、町役場の職員さんも、帰りがけに寄った小平町のイルミネーション点灯式を手伝っていた地元のおばさまも元気だった。いざというとき、あんな風に元気を振りまけるかどうか、ボクにはあんまり自信がない。愛想だけのいい笑顔なら自信はある。女装して余裕を見せるかもしれない。ともあれ。これからの社会では、イメージと記憶とのより慎重な付き合いかたを考えていくことが、より良いコミュニケーションを生んでいくんじゃないかな。不謹慎の境界も、それでなんとなく見えてくるように思う。

 

追記

 震災当時から今まで震災をめぐる言論をほとんど追わずに記事を書いたんで、類似する・参考になる第三者の言及があればコメントで教えて頂きたいです。