かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

超えられない権威の壁

自分の研究のコンセプトを掴みたくて、今更には遅すぎないように赤堀侃司先生の教育工学の入門書を読み始めました。概説書として評価が高かったので即買いして読んで気になったところがありました。

ざっくりかつイメージしやすいように改変して説明すると、Web掲示板で生徒のレポートを公表したものの、教員が評価方法に困ったので、生徒同士の相互評価の分析方法が研究されるようになったという話でした。うちの学部のある授業でも、小レポートを学生に相互レビューするシステムをどこかの研究室が開発して試験運用しているという話を聞いたことがあるし、詳しくは知らないけど十分知見が溜まってそうだなぁという印象があります。

それを外から見ていて思うのは、たしかに学生の相互評価による学習効果はありそうだけど、学生が成果物に抱く自身のセンスや妥当性についてなかなか自信が得られないとき、たとえ他の学生から良さ気なレビューをもらったとしても、その学生のレビューは権威性を持たないと思うんですよね。そこが教員による評価と学生による評価の超えられない壁になっていて、学生による相互評価学習の制約になっていると思うんです。

それでもうまくいく場合もあると思います。「先生」とか「教授」とかアダ名をつけられるような超できる学生がいれば、学習集団のうちの「教員」のポジションになりうると思います。その学生からのレビューは権威的であると思いますし、それを検出しようとする研究も恐らくあるでしょう。ただその課題として、優秀な学生が常に学習集団に存在するとは限らないということがあると思うんですよね。

この意見が「大学として」誤りなことは重々承知していますし、これについては学生の意識調査による裏付けが必要でしょうが、現在の学生がネガティブな意味で「学生化」しているのも、また経験的な事実として考えています。教員なくして学生は存在しないという対地のやり方が間違いだとは言いませんが、その力関係がstaticなものだと勘違いを始める学生も実際として多いのではないかと思います。つまりですね、学生が教員を模範とする学びの理想形と、実際の学生の学習目標観は大きくズレてるのではないか、そう思うんです。この意識の是正は教育上の課題なんでしょうかね? このへんについて分析したものがあれば読んでみたいですね。

結論としては、成果物の評価という行為を学生同士で完結させて何かが自動的に得られるとは限らないということです。絶対的権威としての教員による評価を疎かにするのはまずいんじゃないかなぁ。自分はもっと教員と学生が混じって評価できる場を作って、お互いのパワーバランスの重み付けみたいなものを技術的に調整すればいいのに、と考えてしまいますね。