かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

トランス女性は自らの男性名とどう向き合えばよいか?

 ボクは男性として生まれ、有名サックス奏者の名前をとって命名された。現代日本では男性名とされるネーミングである。仮に、ボクの好きな俳優の堺雅人から「雅人」(Masato)であるとしよう。

  以前ボクがMtFと明らかにしたことから想像されるように、この「雅人」は性自認との葛藤をもたらしてきた。幸い中性的な顔立ちと高めの声に細身で生まれ育ったので、服装さえ工夫すれば女性として他人と関係を作れるかもしれない。しかし、いつか本名は明らかになるものである。男性名は「本当は男なんですね」という認識に着地させてしまうし、初対面の人から女性だと思っていたという嬉しいお言葉を頂いても、素直に喜ぶことはできない。

 では、女性名に変えればよいのか。公的手続きとしては実現可能だが、ボクは自分の理想の女性名というのを考えたことがない。以前、機械的に、実験的に、Facebookの名前を「雅人」から「雅(Miyabi)」に変えたこともあるが、妙な違和感を抱き続け、Facebookの名前を再び変更可能な60日が経過後に、戻した。その違和感の正体とは、改名操作に隠れた「女性は『人』じゃないと言ってるようなものじゃないか」という自らの無意識である。「雅人」という名前の女性が存在してはならないのか? これは大きな前進だった。

 

 そこで、少しピンときて、「男性名の女性キャラ」でググってみた。

ガンダムシリーズでも高い人気を誇る、Zガンダムの主人公であるカミーユ・ビダンのセリフです。
 あと漫画でも男の主人公が「いちご」だったり、女の主人公が「ガリィ」だったりしますね。
 小説でも、灼眼のシャナは漢字だと「遮那」なのですが、これも実は男性名です。

(「キャラクターの名前と性別の不一致について」

http://www.raitonoveru.jp/howto/h3/437a.html より)

 

 ああ、たしかに。もっと複雑な例では、『バカテス』の「木下秀吉」は男性の自認で女性の容姿(男の娘)である。そのインパクトにファン間では「性別=秀吉」という言葉も生まれた。もはや名前は人物の識別子に過ぎず、「秀吉だから普通の男だ」という典型的なジェンダーを表象するものとしては意味を失効している。

 まったく意図せざる結果として、自分が15年ほど使い続けている「すねお」というハンドルネームも、現在ではそのような効果を持っていると思う。ネット人格の識別子としての「すねお」は、リアル人格の社会的性別を隠蔽し、名前がリアル空間で担ってきたジェンダーを表象する機能を無効化しているのだ。結果オーライである。

 現在は、特に公共機関等の手続き、例えば医者に掛かるとかでない限り、出来るだけ女性として男性名の本名を名乗っている。医者が気にすれば良いのは、肉体が男性であることであって、恰好や容姿が女性であることではないはずだ。「雅人」という美少女キャラを思い浮かべてみて欲しい。格好よくない?

 今、表題に対してボクが持ち得る結論は、名前に対するジェンダー的な意味付けから自由になることである。その自由とは、名前にジェンダー的な意味付けを見出すこと、見出さないことを選ぶ自由でもある。これを応用すると、「ボク」という一人称も、言葉遣いさえ、がんじがらめになる必要は全く無くなる。響きの良さとかフィーリングで好きなものをつまみ食いすればよろしい。それは他人や社会に矯正され、強制されるものではないはずだからだ。以上がトランスとしての自分の選択肢である。