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坂本佳鶴恵「ジェンダーとアイデンティティ――ゴッフマンからバトラーへ」内容まとめ

前→(第1章)加藤秀一「ジェンダーと進化生物学」出典まとめ
次→(第5章)山崎敬一「ジェンダーとエスノメソドロジー――『オールドミス』と『キャリアウーマン』」

出典

江原由美子山崎敬一編『ジェンダーと社会理論』(2006, 有斐閣) 所収
第4章 坂本佳鶴恵ジェンダーアイデンティティ――ゴッフマンからバトラーへ」

本章のまとめについて

 ゴッフマンやバトラーがどういう理論を言っていて、それらを理解するには何が必要かを重視してまとめを書こうと思います。

 ・かぎ括弧引用の直後に丸括弧の無いものは、坂本の地の文章とします。
・坂本の地の文章で、三点リーダ2つ(……)は省略を表します。
・カンマ(,)は読点(、)に置き換えています。

 [pp.51-63]
 第4章 坂本佳鶴恵ジェンダーアイデンティティ――ゴッフマンからバトラーへ」

[p.51]
 1 ゴッフマンと日本のジェンダー社会学

ゴッフマンが日本の社会学におけるジェンダー分析に与えた影響は3つの点。

 ① ゴッフマンが提示した日常的な相互行為を分析するための数多くの有用な概念は、坂本(1983)*1、安川編(1991)*2、高橋(2002)*3など、少なからずジェンダーや恋愛の分析に使われてきた。

② ゴッフマンや、やや遅れて同時代に起こったエスノメソドロジーがつくったミクロな相互行為分析の流れは、江原由美子ほか『ジェンダー社会学』(1989年)など、ジェンダーの日常的な生活場面における分析に大きな影響を与えた。

③ ゴッフマンの行ったジェンダーの具体的分析がジェンダー分析に大きな影響を与えた。ゴッフマン『ジェンダー・アドバタイズメント』の影響を受けて書かれた上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』(1982年)は日本におけるジェンダー分析の先駆的研究。

[p.52]
 2 ゴッフマンのジェンダー分析

◇ 『ジェンダー・アドバタイズメント』

【執筆・出版の背景】 ゴッフマンのジェンダー分析の代表的著作。1976年出版で、アメリカのフェミニズム運動が盛んになった時期。指導的社会学者になったゴッフマンがジェンダー研究を行ったことが学問世界において一つの政治的意味を帯びていたと思われる。
[p.53]
 この本は、ゴッフマンが一貫して注目してきた対面的相互行為(目の前にいる人どうしのコミュニケーション)ではなく、広告というメディア(目の前にいない誰かのイメージ)を扱っている。しかし、それまでのゴッフマンの人間の姿勢・仕草に対する見方、分析手法や、文化人類学的な関心など、手法や関心という点では、それまでの著作の延長上にあると言える。

【ゴッフマンの仕事】「ゴッフマンは、広告を、社会におけるジェンダーの理念型を単純化し、誇張した形で示しているものと捉えた。……こうした広告を具体的に分析することによって、「自然な」表現と思われている男女の仕草や態度、外見が、社会的につくりあげられた、文化的で「儀礼的」なものであることを明らかにしようとした」

 例)広告における男性と女性や子どもの姿勢、配置の上下は、両者の特定の関係性が示唆されている。
 例)広告に登場する女性の姿勢や表情、仕草や格好は、広告内の他の人物や広告を見ている人との特定の関係性を表現したり特定の印象を与えたりしている。

[pp.53-54]
【ゴッフマンの指摘:ジェンダー
 広告における表現は、日常生活における人びとのジェンダー表現を象徴していて、日常生活における男女のジェンダー表現は、表現である以上に差別的な支配-従属関係を含んでいる。それらは男女間、上下関係にある男性間で非対称性がある。こうしたジェンダーのステレオタイプの分析は性差別の分析である(Goffman 1976)*4
[p.54]
「日常的に、誰がもっともよく発言し、誰の意見が力をもつのか、誰が共同作業に必要なそのときどきの決定をおこなっているか、その場の誰の関心がもっとも重視されるのか、が問題である。そして、どんなにこれらの損得が些細に見えたとしても、こうしたことがおこっているすべての社会的場面を総合すれば、その全体的効果は巨大である。この大量の状況的手法による従属と支配の表現は、たんなる社会的ヒエラルキーの模写や象徴や儀礼的肯定ではない。これらの表現は、ヒエラルキーを構成しているのだ。これらは、影であり、かつ実体である」(ibid.: 6)*5

 性差別は、賃金差別のような経済構造の問題に限定されず、日常生活の行為に潜む権力の問題でもある。「ジェンダーの問題は、親密製領域における権力の問題であり、それがゆえに権力を指摘しにくいという困難を抱えている」。

◇ 相互行為の分析
【ゴッフマンの指摘:パッシング】
「人びとは日常生活で他者のまなざしを意識し、自己の印象を管理・操作する」。こうした印象操作の一つであるパッシングとは、「スティグマ(社会的に不面目と見なされているもの)をもつ人びと」が、「スティグマを悟られないようにやり過ごす」ことである。

例)「ジャズ演奏者や教皇など、男性にしか許されなかった仕事をするために、女性が、男装をして、長期間男性としてパッシングした事例」

[p.55]
例) 無意識のパッシングとして、「性別による就職差別が禁止されていなかった時代に、男性と同じような名前をもつ女性が、男性と間違えられ他の女性に比べて大量の就職案内を送られるという事例」
例) エスノメソドロジストのH. ガーフィンケルが分析した、「男性として育てられた性同一性障害者が、女装をして女性としてパッシングしている例」

【ゴッフマンの分析概念:ドラマトゥルギー】 ドラマトゥルギーという、演劇の比喩を用いた手法では、「人びとの日常生活での行為を、他者のまなざしを意識し、自己を演出するという視角から見る」。

例)「ゴッフマンは、アメリカの女子大生について、デートの相手になりそうな男子学生の前にいるとき、自分の知性・技能・決意のほどを低めに見せたり、男友達が彼女たちのすでに知っていることを退屈な仕方で説明するのを、黙って聞いていると指摘している……(Goffman 1959=1974)*6

 このような演技は「ジェンダーについての社会的偏見を維持することに貢献する」他方、「自覚的に演技していることによって……社会的偏見とは異なるみずからのアイデンティティを保っていることも示している」。また、このような演技性を仲間に暴露することで、規範とは異なる「本当の自己」を一部の他者に認めてもらったり、社会的偏見というものは、つくられた社会規範にすぎないことを示したりもできる。
[p.56]
 しかし、こうした演技の暴露は仲間内でしかできないという限界がある。また、女性がドラマトゥルギーを用いて男性をコントロールし支配している見方もありうるが、当事者が弱者という地位を利用した戦略である以上、秩序(権力関係)を覆すことにはつながらない。この戦略によって当事者が利益を得る一方で、ジェンダー規範は再生産され強化される。ドラマトゥルギーは、当事者達の秩序に対する抵抗の戦略を可視化するが、それが権力関係の変化につながる方法や可能性は示されていない。
[pp.55-56]
 ゴッフマンは、相互行為というミクロな現象の分析意義を、「階級などの経済や法的関係」などマクロなアプローチとは異なる側面の分析として主張したと思われる。「ギデンズは、むしろゴッフマンの相互行為分析を、マクロな社会制度の分析につながるものと評価している(Giddens 1987=1998)*7」。

[pp.57-62]
 3 状況的アイデンティティ――ゴッフマンからバトラーへ

[pp.57-58]
◇状況的アイデンティティ
【ゴッフマンの分析概念:状況的アイデンティティ
アイデンティティは、自分が何者であるかという意識であり、同一性と訳される」。「エリクソンは、アイデンティティを、人格的同一性と連続性、および他者がそれをを認知しているという同時的な知覚によって成立すると述べる(Erikson 1959=1973)*8」。それに対し、「ゴッフマンは、状況に応じてさまざまな自己呈示が行われること、すなわち状況ごとに変化するものとして自己を描いている」。
 ここでは、自己の所在や、その本質の有無は主要な関心ではない。「人が自己のあり方を管理・操作することで、自分や他者が、今をどのような状況と見なすかという状況定義に介入していることが重要であり、こうした状況的自己の設定や破壊の絶えざる過程を記述することに焦点を当てたのである」
 筆者には、当事者によって提示される自己がかりそめであるという可能性や、それらの自己を当事者が受け容れているのかどうかの認識などがポイントであるように思われる。

[pp.59-60]
◇文化的アイデンティティの構築性

 状況的アイデンティティの考え方は、近年のジェンダークィア研究における重要な論点であり、「一貫した個人のアイデンティティが存在する/せねばならないという前提に異議が出てきてい」て、「アイデンティティを構築されるもの、流動的なものと見なすことを求めている」。
 こうしたアイデンティティの理論は、一貫した個人のアイデンティティをもとに人びとを集団に分けて考えることの妥当性に疑義を唱えるものであり、アイデンティティをめぐるきわめて政治的な社会問題をどう捉えて解決すべきと考えるかと密接に関わってくる。

◇バトラーとアイデンティティ
[pp.59-61]
「バトラーは、日常的な行為によって、ジェンダーが維持されていることに注目し、パフォーマティビティと呼んだ」。ゴッフマンのパフォーマンス(演技)という概念ではドラマトゥルギーの背後に主体が存在すると考え、この概念では、先行する主体をおかない。
 バトラーは、L. アルチュセールフーコーが指摘したような、主体の形成を通した近代社会の権力性を念頭に、そのうえで、「アイデンティティをつくりだす主体の存在自体を、明確に否定し」、「主体がどのようにして形成されるのか、特定の形成がなされないで権力から免れる可能性はないのかを模索する」。「バトラーは、主体に代えて、エージェンシーという概念を用いることによって、人が主体となる(される)契機について議論をしようとする」。
「具体的な実際の相互作用のレベル」では、主体の構成は「特定の個々のアイデンティティ・カテゴリーによって、呼びかけが行われること」であるため、「アイデンティティの構成として考えることができる部分が多い」。主体の形成過程のもつ権力作用を問うために、「バトラーは、アイデンティティを、その場の行為およびその累積の歴史を通じて構成されるものと考え」、ジェンダーアイデンティティをもつ主体の構成は「日常行為に依存するがゆえに、行為によって変わる可能性をももつ」。
[p.62]
「ゴッフマンの分析の中には、……中・後期のものを中心に、主体の構成という視点から、読み直し、具体的な分析として利用することも可能だろう」。

[pp.62-63]
 4 アイデンティティと権力

[p.62]
「秩序*9に対する疑問が生ずるとき、それは自己の、そして他者の、調和し統合されるべきとされるアイデンティティに亀裂が入るときである。……この亀裂こそが、権力的な秩序を変えていく可能性をもつのではないか(坂本 2005)*10……
 このためには、アイデンティティは、つねに状況において構成されるアイデンティフィケーションと考える必要がある。」この問題は、カテゴリーという言葉だけでは、カテゴリーへの感情の問題を説明できない。バトラーは精神分析の概念を持ち込んで解こうとしている。ゴッフマンの諸著作には相互行為における感情の記述も多い。

(まとめはここまで)

おわりに
 ツギハギのキメラみたいなまとめになりましたけど、ボクが文章を理解する作業は、文章中の単語を組み替えながら文章がもつ意味のネットワークを観察することですので、作為的で手を抜いているように見えるようで、一応は自然な結果です。あとパフォーマティビティのあたりは森山至貴『LGBTを読みとく』(2017, 筑摩書房)で先に知っていたので楽でした。次に関しては、言葉をどう使うかというところにやはり興味があるので、このまま第11章本論2「会話における性別カテゴリーの使用」に進もうと思います。ちかれたねます。

*1:坂本佳鶴恵, 2005, 『アイデンティティの権力――差別を語る主体は成立するか』新曜社

*2:安川一編, 1991, 『ゴッフマン世界の再構成』世界思想社

*3:高橋裕子, 2002, 『「女らしさ」の社会学――ゴフマンの視角を通して』学文社

*4:自明だからか、出典には載ってなかった

*5:「ibid.」とは「同上」の意

*6:Goffman, E., 1959, The Presentation of Self in Everyday Life, Doubleday.(=1974, 石黒毅訳『行為と演技』誠心書房)

*7:Giddens, A., 1987, Social Theory and Modern Sociology, Polity Press.(=1998, 藤田弘夫監訳『社会理論と現代社会学』青木書店)

*8:Erikson, E., 1959, "Identity and the Life Cycle," Psychological Issues vol.1, Monograph1, International Universities Press.(=1973, 小此木圭吾ほか訳『自我同一性――アイデンティティとライフサイクル』誠心書房)

*9:権力と読み替えてもよいだろう

*10:同上