かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

相撲協会の女児排除についての考え

 連投ツイートだと思って読んでください。

 

 相撲協会が静岡巡業の「ちびっこ相撲」実行委員会に女児排除を指示した件で、相撲協会側が「女性が土俵に上がれない話とは別」という認識を示した話、本当に無自覚に行われる性差別が現実にあるんだなと、ぞっとします。

 相撲協会芝田山広報部長(元横綱大乃国)は「男子はけがをしていいというわけではないが、女の子が万一、けがをして顔に(一生残る)傷が残ることになってはいけない。安全面も考えてそうなった」(スポーツ報知)と言いますが、一生残るような傷を負うことがあってもなお稽古をつけてもらいに来る子ども側の自己決定権や主体性は、ここではまったく尊重されていません。

 別の報道によれば、「安全面を考慮した措置で、女性が土俵に上がれない話とは別問題だ」(朝日新聞デジタル)と、4月4日の舞鶴巡業の件とは無関係であることを主張しています。たしかに問題状況としてはあくまで別の話ではありますが、女性が土俵に上がれない話があたかも正当であるかのように構えて、ちびっこ相撲における女児排除対応を正当化しているかのように、筆者には聞こえます。ここでのポイントは、他の対応事例との関連性を(その有無に関わらず)説明する形で、その対応が正当であるかどうかという論点には触れずに済んでいることです。たしかに無関係かもしれませんね、でもそれぞれの対応が問題であるかどうかとは別ですね、という話です。

 性差別が相撲協会の内側で簡潔するなら勝手に潰れてくださいという話ですが、ある出来事が報道を通じて社会に周知されると話は違ってきます。我々の身近で、「相撲協会だってこうしているじゃないか、だからこれは正当だ」という性差別は起こりえると思います。ただし、自分自身もまた性差別を起こしえるということは意識すべきだと思いますが(身近に居るとは思いたくないが1人だけ臆面もなく主張する人物を筆者は知っている)。

 徹底したロジックで知られる社会学者の加藤秀一は、著作『性現象論』(勁草書房、1998年)において、我われの持っている性に関する常識や知識を支える根拠に疑問を投げかけ続けることについて、次のように述べています。「〈性〉……を支える根拠を観念としての〈根拠〉へと格下げしていく……作業の果てに見いだされるものは、〈性〉の本質的な無根拠さであろう。」(p.14)また、女人禁制を擁護する論者が持ち出す文化や伝統は、加藤の言葉を借りて言い直せば、「ほどほどのところで人々を納得させ、常識への過剰な疑念を封じる一種の安全装置として」(p.15)の〈根拠〉に過ぎません。文化や伝統という〈根拠〉にすがっているうちは、〈性〉から離れたところにある本質的な問題には辿り着けないでしょう。