かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

告白〈カミングアウト〉をしない方法論

※筆者は長いカタカナ語が嫌いなため、「カミングアウト」「カムアウト」を「告白」と書き表しています。

 筆者は性自認セクシュアリティの暴露(outing アウティング)を恐れていない。仮に、「○○(筆者の本名)はレズビアンだ」と告発するビラが弊学部に貼り出されたとしても、「そら事実だしな」で終了するし、かりにビラを貼り出した人間を告白するとしたら、他人の private かも知れない*1情報を断りなしに衆目に晒すことについて、さらに、社会の性的少数者をターゲットにすることについて、その品性を問いただすだろう。

 なぜなら、問題行動とは、行動を起こした人間に問題があるからである。中島義道という哲学者が著書のなかで、日本の電車では乗客に持ち物を盗難されないよう注意する車内放送はするのに、他人の持ち物を盗難しないように注意する車内放送はしないことを疑問視していた。

 また、加害・被害とは無関係だが、ここでかりに「レズビアンである筆者にも責任がある」という主張がまかり通れば人権問題であることは想像に難くないし、筆者はその状況をハチャメチャに面白がって現指導教員に手が滑って報告してしまいかねないだろう。

 このように、筆者は自身がジェンダー規範を逸脱していることについて極めて「無頓着」であるが、これは大学院に進んでからしばらくしてからのことである。学部時代が終わる頃までには、自身がMtFレズビアンであることを認識していながら、公表するにまで至っていなかった。筆者の性格を振り返るに「一貫した説明をしなければならない」と思い悩み、プロジェクトに頓挫していたのだろう。

 しかし、「告白」しなければならない状況への苛立ちもあったと思う。日本社会の現状として人は異性を愛するのを「普通」とする異性愛主義(heterosexism ヘテロセクシズム)があり、自身の肉体の性に対して違和感のないこと(cisgender シスジェンダー)を前提に法や制度が整備されている。つまり、「告白」しない限りは、自分という存在が、社会では自動的にシスジェンダー異性愛者(シスヘテ)という前提でコミュニケーションが回っていく。そして、しぶしぶ「告白」を「させられる」。「告白」しようがしまいが不利な社会なのだから、好きでカミングアウトなんて誰もしていないと思う。筆者にとって「告白」は祝福の対象ではなく、「懺悔」の都合の良い読み替えに過ぎないと思う。筆者はそんな「告白」は歓迎しないし、告白暴露(2018-05-29 18:32訂正)した者を弄んでコンテンツにする程度の余裕を持て余す方が人生楽しいと思う。

*1:筆者にとって性自認セクシュアリティは private な情報ではない