かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「淫夢」というアンビバレンス【前編】

学生自主ゼミ記録
 題目「お笑い」「同性愛嫌悪」から考えるネット上での
    ゲイビデオ『真夏の夜の淫夢』の消費の問題点
 日時 2018年05月24日(木)

 

はじめに
 ゼミでは、まず報告者である筆者が発表資料スライドを用いて問題意識を説明し、発表内容の質疑を行ったあと、参加者同士での自由討議に移りました。何度か話題を変えながら大小幾つかの論点が取り出され、見切り発車でやってみたにしては意義深い会になったのではないかと報告者としては振り返っています。この記事では議論の全体を俯瞰できるよう、記事を前後編に分け、本記事は前編として筆者の行った問題提起を書いていきます。なお、ゼミ後の反省点を踏まえて、発表時点の内容に追加と修整を加えています。

淫夢」の謎
淫夢」というジャンルは息が長い。ニコニコ動画「例のアレ」カテゴリの月間総合ランキングを確認すると、2012年4月は「レスリングシリーズ」動画が多いが、翌年2013年4月には逆に「淫夢」MAD動画が多く上るようになる。2012年4月には、「レスリングシリーズ」で著名なポルノ俳優のビリー・ヘリントン氏が来日してニコニコ超会議に参加した。ここから約1年の間にジャンルの入れ替わりが起こったと推測される。ジャンルとしての落ち着きを見せるレスリングシリーズと比べ、淫夢は今なお「例のアレ」から消える気配はない。
 ジャンルが存続するには人びとの興味を惹き続ける必要があるのは言うまでもないが、ジャンルの人気の要因をジャンルそのものの存在に還元するのは決定論的であり、本質的な要因を見逃すおそれがある。バーチャルYoutuberにファンがつくのは、それが「バーチャルYoutuberだから」と言うと笑われるだろう。そうではなく、木村すらいむ氏が解説するように、バーチャルYoutuberが特有の文化構造を持っていることに説明が求められるべきなのである。同様に、「淫夢」の息の長さを説明するために「淫夢」それ自体の解説に時間を割くのはあまり有効な戦術とは言えないはずだ。しかし、逆説的ではあるが、現場に入って行って自らもまた当事者にならねば分からないこともあるのではないか。中身それ自体が重要ではないが、中身を介して理解できる構造もあるのではないか。現場の視点から「おもしろさ」の構造が見通せないだろうか。
 このような期待と問題意識から、筆者は2014年から約3年間にわたってニコニコ動画「例のアレ」デイリーランキングの確認を行い、特にエンタテイメント性の高い傾向のある「BB先輩劇場」タグの付いた動画の踏破を試みた。「BB先輩劇場」はサウンドノベル形式のオリジナルストーリーが展開されることが多いサブジャンルであり、「淫夢実況シリーズ」と共にランキングに浮上しやすいが、ゲーム知識の多寡がハンデにならないように「BB先輩劇場」を選択したと記憶している。それから3年が経過して、「BB先輩劇場」については8割程度(当時で3000件程度と思われる)が視聴済みとなった。ただし、日常生活の傍らの作業のため観察記録を付けず、定性データ・定量データを用いて分析できないことを先に断っておかねばならない。これから書くのは体験に基づく直観的な考察、つまり感想文である。

淫夢を「おもしろ」くするもの
 ニコニコ動画では、動画ごとに視聴者が投稿したコメントが投稿時点の動画再生時間に合わせて動画上にオーバーレイ表示され、あたかも他の視聴者とリアルタイムに動画を視聴しているかのような感覚を視聴者にもたらす。濱野智史氏はこのようなニコニコ動画の 特異性を「擬似同期」と呼び、この仕組みが視聴者同士のコミュニケーションを擬似的に可能にしている。しかし、動画を介したコミュニケーションは視聴者間だけに限らない。少なくとも「淫夢」動画においては、視聴者が投稿者の動画の出来を評価するという関係性が見られる。このような関係性において、動画投稿者もまた視聴者の反応を先読みするような仕掛けや演出を動画内に取り込み、そこに視聴者が反応するという循環が起こっている*1
 これを踏まえ、「BB先輩劇場」動画においてはエンタテイメントとして「おもしろさ」が重視される傾向にあり、コメントにはその出来を点数で表現したり、「こうすれば良くなる」などと具体的にアドバイスしたり、理由をあげて「つまらない」理由を説明したりするものが集中する。投稿者に対するお世辞はほとんど見られず、常に本音で語っているというのが率直な印象である。また、過度にゲイ男優を中傷したり、ゲイ差別を煽ったりするといった露骨な表現を含む動画は視聴者の反発を買い、視聴者は不快感を露わにする。ここに、ゲイ男優の肖像権を侵害するコンテンツを利用しながらゲイ差別表現には配慮するという、視聴者の奇妙な規範の一端が見てとれよう。投稿者はこのような視聴者の「笑い」にシビアな空気を察知して、勢いとゴリ押しとも言える編集方法で視聴者を無理やり笑わせようとすることもある。
 このような投稿者と視聴者の相互作用の帰結として、エンタテイメント性の高い動画には動画広告ポイントが付けられ、コメント数・マイリスト登録数が伸び、ランキングに浮上し、更には他の動画に引用される。そうでない動画は視聴者に印象を与えず、動画ネットワークのなかで存在感を希薄にし、自然淘汰されていく。このような状況は「BB先輩劇場」に限らず、オリジナルな創作要素を含む「真夏の夜の淫夢」動画全般に言えるだろう。このように、クオリティの高い動画が生み出されやすく、生き残りやすい構造こそが「淫夢」を「おもしろい」、「笑える」ジャンルにしている要因として推測される。

「笑われる」者としてのゲイ男優たち
 一方で、「淫夢」はゲイ差別的であるとする批判を受けることがある。著作権・肖像権的な問題は勿論として、そこでは「淫夢」を「お笑い」の素材に選ぶことの倫理もまた問われているはずであり、この点について考えてみたい。
 「お笑い」には「笑う」者がいる以上は「笑われる」対象、「笑われる」者が通常存在する。この「笑われる」対象の質を理由に「お笑い」を問題視することは戦術として有効だろうか。言い換えれば、「淫夢」を笑ってはいけず、笑点の「大喜利」を笑うのはよいといった判断の仕方を問うているのである。近頃は「これこれの表現はポリティカル・コレクトネス的に(笑ってはいけないものなので)アウト」などと告発した者が勝ってしまう風潮があるように思われるが、これも対象の質を問う態度であろう。実社会には差別的であるという認識に基づいて規制される表現が存在することからも、現実的な路線のように思われる。その上で、何を差別的とみなすのか、みなさないのかの基準が決められ、「笑ってよいもの」と「笑ってはならないもの」の線引きがどこかで設定されているのが現実だろう。しかしながら、これは「笑い」の本質を見失わせる認識である。
 筆者は「笑い」に潜む差別性や暴力性の存在を否定しない。問題は、それらが「笑い」を告発するための道具として決め手を欠くことである。なぜなら、「笑い」とは常に「笑われる」対象が居るだけでなく、かれらの犠牲があるからこそ成り立っているものであり、すべからく差別性を暴力性を含む「笑い」を差別的かどうかという視点に立つこと自体がセンスを欠いた指摘だからである。「笑い」である限り差別と暴力があるという認識が失われてはならない。
 ここで、筆者は「「笑い」に抵抗できるのは誰か」という視点から「笑われる」者について考えてみたい。例えば、TV番組「笑点」の大喜利が「笑い」として成立するのはなぜだろうか。大喜利では落語家たちが時に他の落語家をネタにして「笑い」をとるが、歌丸ならば不満を露わにしたり座布団を奪ったりするし、山田くんならば落語家を突き飛ばしさえする。彼らは自身がネタにされて「笑われる」ことに対する制裁や抵抗が可能である。裏返せば、大喜利とは彼らが「笑われる」ことを常に許容し合うことで成立する空間である。ここに、「笑われる」者の抵抗可能性が見ることができる。ネット上で100万回中傷された弁護士がテレビ局の取材に応じて顔出しで発言できるのは、弁護士という社会的地位が背景にあるからこそである。
 一方、「淫夢」のゲイ男優たちは「笑われる」者として社会に告発が出来るだろうか。「LGBT」という言葉と共に以前に増して性的少数者そしてゲイの認知が高まっているとはいえ、それはゲイ当事者がゲイ差別に晒されるリスクが減ったことを直ちに意味しない。 歴史的に見れば、明治期日本には女性同士、男性同士の親密な関係性が存在していたが、同時期に輸入された「同性愛」概念と結びつく形で社会問題化した*2。今現在、依然として 日本社会にはヘテロセクシズム(heterosexism 異性愛主義)が根強いとみられる
 異性愛主義においては、人はふつう異性を好きになるという異性愛を前提としたコミュニケーションが行われ、少しでも異性愛規範から外れると「お前はホモ/レズかよ」などとからかいの対象となる。また、当事者として抵抗したとしても、彼らに向けられる偏見によって不当に虐げられるリスクの存在も否定できない。同性愛者は異性愛規範に従ったコミュニケーションをとるようになり、同性愛者の不可視化につながるという循環が生じていく。このように、異性愛主義の浸透した社会とは、同性愛者が同性であることを表明する社会的リスクの大きい社会である。「淫夢」のゲイ男優たちの背景には、このような日本社会があることを考えなければならない。
 ここで「淫夢」発掘の発端となった一人の大学野球選手の人物を振り返ってみよう。彼は優秀な投手だったが、週刊現代が彼のゲイビデオ出演疑惑を彼だと分かる書き方で報じ、球団側がドラフト指名を回避するという異例の事態が起こった。当時のナリナリドットコムの記事ではこの件について、日本のプロ野球界における同性愛タブーの存在を指摘している。選手本人はポルノビデオ出演の真相を次のように語っている。

「大学時代に(ホモセクシャル)ビデオに出たことがあり、とても後悔しています。当時は若くお金が必要でした。たった1度の過ちで2度と同じ間違いはしません」
「ボクはゲイではありません。はっきりと真実を伝えたかった」
ヤンキーススタジアムでは罵声を浴びるかも? でもボクは英語は分らないから、大したことないです」

※「Weyback Machine」における「多田野数人投手、過去のポルノビデオ出演を告白。 Narinari.com」(http://web.archive.org/web/20041213223158/http://www.narinari.com/Nd/2004011790.html)2004年12月13日のスナップショット

言葉尻を捕まえて揚げ足を取るではないが、これらの発言を少し考えてみよう。彼はゲイビデオ出演疑惑を問われているはずなのに、ゲイではないことを強調している。彼の中ではゲイビデオ出演疑惑=イコール)ゲイ疑惑でもあるのだ。そして、ビデオ出演を「過ち」、「間違い」と表現するように、同性愛をタブー視していることが分かる。だからこそ「後悔しています」という反省の言葉が出てくるのである。かりに出演作品が異性愛者男性向けだった場合でも、果たして同様に雑誌に報じられ、球団に指名回避され、選手本人からこのような発言を引き出すことになったのかどうかは疑問が生じる。プロ野球もまた同性愛タブーな日本社会の象徴と言えよう。彼は作品に「素人」として出演していたが、もし彼が野球選手でなかったら、一般人として「ゲイポルノ出演疑惑」という名の「ゲイ疑惑」の標的になっていたことも考えられる。以上のように考えてくると、ゲイ男優たちは到底「笑われる」者として抵抗することに相当の困難を極めることが想像できるはずだ。

 改めて問おう。以上で見てきた日本社会を背景とする「淫夢」のゲイ男優たちは「笑われる」者として社会に告発が出来るだろうか。このように批判を行うと、インターネット上における「淫夢」や「レスリングシリーズ」などゲイポルノの人気を挙げて擁護する意見もあるだろう。あくまで笑われているのだから危険ではなく安全だ、という問題認識である。しかし、いかに人気を誇ったからなどと言って、同性愛者への偏見が解消されたとみなすのはきわめて楽観主義的であると言わざるを得ない。なぜならば、そのような認識は「ゲイは面白いからOK」という限定付きの承認であり差別の一形態に過ぎないからだ*3。誰かに承認されなければ得られない人権の一体どこに価値があるのだろうか。

筆者のアンビバレンス
 以上のように、「淫夢」というジャンルがハイクオリティさを保つ仕組みと、「淫夢」が「お笑い」の対象になっていることではなく、異性愛主義の社会を背景とするゲイ男優たちが「笑われる」者として抵抗することの困難について論じた。ここまで書くと、きっと読者諸氏の目には筆者が「淫夢」を極めて問題視しているように映るかもしれない。しかし、残念ながらと言うべきか、仕方がないと言うべきか、筆者は3年間視聴を続けたことで、ジャンルの沼にはまり、「おもしろがって」いるのが正直なところである。このようなダブルでアンビバレントな態度は非誠実に思われるし、何より自己矛盾を抱えるのが気持ち悪い。要するに筆者は困っている。このような筆者のアンビバレンスな悩みを踏まえながら、ゼミでは「「淫夢」を消費していいのか」という論点が展開されていくという流れになる。(後編に続く)

*1:例を挙げよう。『真夏の夜の淫夢』の作品内に登場し、未だ個人情報が特定されていないゲイ男優の正体を考察する「野獣先輩新説シリーズ」というサブジャンルがある。投稿者が動画内で自説の根拠を次々に提案していく形式をとり、最後には作品に関連する固有名詞や数字を用いたアナグラムを用いることが慣例となっているが、ほとんどの場合こじつけである。これに視聴者が「ガバガバアナグラム」という揶揄のコメントを送るのが通例だが、この「ガバガバアナグラム」という表現をあえて動画で採用する投稿者も多い。さらに、このような投稿者の態度について「自らガバガバアナグラムを名乗るのか…(呆れ)」などと反応する視聴者もいる。このように、淫夢動画においては、このような投稿者と視聴者の動画を介したコミュニケーションが時に自覚的に行われている。

*2:森山至貴『LGBTを読みとく』筑摩書房、2017年、p75, pp.76-77

*3:このような批判は、テレビ出演するオネエキャラの芸人や女装家コメンテーターの才能をもってトランスジェンダーの存在を承認する態度にも向けられる。