かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「情強」の条件

今のネットは(便利な枕詞)他人の嘘や虚構をとことん暴く方向性に突き進んでいってると思うんですが、その渦中の人びとはどこか、リアルタイムに何が嘘で何が事実を知らなければ「情弱」(=情報弱者)になってしまうような強迫観念に駆られているように見えなくもないです。10年前の2ちゃんねるだったら「ねーよwwwwwwww」とか草を生やして笑い飛ばされていたようなフィクションがフィクションのままでいられない場になっています。第二の「電車男」はおそらく二度と表れないだろうし、それの成立が難しい環境になったのではないでしょうか。「電車男」のスレッド上で行われていた書き込みのことを、「電車男」という物語の「事実(真実)らしさ」を協働で集団創作する行為なのだとすると、卑近な例では、唐澤貴洋弁護士をめぐるネット上の動きというのは、「唐澤貴洋弁護士」という物語の「非事実(非真実)らしさ」=「嘘らしさ」を協働で集団創作する行為と言えるのかもしれません。そのような意味で、「電車男」と「唐澤貴洋弁護士」は対極的な事例に見えて、ネット上の現象としては通底した性格を持ち合わせていることが指摘できます。

よくよく考えてみると、特定個人についての「情強」でいること――徹底的なプライバシー侵犯と暴露行為――の価値というのは、「情強」でいるための資源である知識の「真実性」という指標を取り除いてしまうと、よく分からなくなってしまいます。あえて言うならば、特定個人についての物語の語り部、構成員でいたいという欲求に基づくと言えるのではないでしょうか。クリティカルなツッコミに対しては「マジレス」と相対化してみせるのは、物語の存在そのものが絶対的であり、それ自体が目的化した手段になっているからではないでしょうか。スレッドが唐澤弁護士アンチ批判に傾くと、唐澤弁護士に関する不信を招くようなエピソードが「燃料」として投下されるのは、このような性格に由来します。つまり、物語がいかに正しいのかが客観的に検証されるではなく、物語自体が存在のための資源として利用されるのです。そのような物語の扱いに長けていることこそが「情強」の条件なのではないでしょうか。