かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

『のび太の宇宙小戦争2021』感想

ネタバレ注意。

 

 

 

 

  • 「大統領」という単語に、どうしてもウクライナ情勢が頭をよぎった。公開延期は意図せざるとしてもタイミングが絶妙で、今でしか味わえない感慨があった。
  • 旧作映画を見慣れていると「映画は原作に沿って作られるものだ」という思い込みができる。それを突き崩しながら素晴らしい作品を提出してきたのが、旧作リメイクだったのかもしれない(全部じゃないけど)。今回そこに宇宙小戦争2021が入ってきた。
  • 旧作が頭に入ってるので、ここが変わったな・同じだな・新しいな、というのに全部気がつく。マニアなので。コミックにおけるピリカ星に出立するまでの流れは区画整理が入って見通しが良くなっている。無論、コミックのプロットに問題があるのではなく、コミックとしてはあれで良いのである。多分、今作をコミックに起こしたら物足りなくなるかもしれない。そのくらい、現代アニメ的なプロットになっている。
  • 銀河超特急のび太「こういう危機を僕たちは何度も乗り越えてきたじゃないか」? 違う、君たちは冒険させられてるんだ、映画ドラえもんは冒険してなんぼなんだ、行って帰ってくるのなんか既定路線じゃないか。こう考えるつまらない子供だったが、単に私が彼らの「仲間だから助ける」という動機を無視していただけだった。
  • ある意味でパピは私であり、ドラえもん達がなぜ助けてくれるのか理解できない点で共通している。パピは対話と責任の人である。映画のドラえもん達もしばしば自らの招いた問題を片付けるために「責任」という言葉を用いて冒険に赴くが、今作ではパピがピリカ星の問題を持ってきて「責任」の切り分けをしていた。「責任」は「仲間」と対立するように見える。
  • パピは恐怖するスネ夫に自らの恐怖を打ち明けたことで、スネ夫も「仲間」に加わることができた。仲間とは思いを共有できる相手なのだと思う。パピはスネ夫に声を掛けた瞬間から仲間になったのだ。スネ夫も自分にできることをやると決意して協力した。仲間とは責任を共有できる相手なのだ。
  • こうした仲間の論理は純粋でイノセントに映るかもしれないが、映画ドラえもんとは非日常奇譚であり、彼らは彼らないしゲストキャラクターの日常を取り戻す欲求に駆られて彼らは冒険しているに過ぎない。だから、パピだけピリカ星に帰してはいけないのである。あんな物騒な首都があってたまるか。要するに、日常を破る者に対抗して責任を共有するのが、彼らのいう「仲間」なのである。
  • ロコロコの長話は短所でもあり危機を乗り越える長所でもあるが、それだけでなく「自分にできることをやろう」という彼らの決意が重ねられてもいた。のび太は「自分には何もできない」と言うが、仲間でいることの忠実さに関しては誰にも負けていない。だからあんな無謀で危なっかしい行動ができる。
  • ドラコルル長官の抜け目の無さはパワーアップしていたし、副官の存在でその有能さが対比されていたし、最後の彼の態度はとても良かった。そう、彼はパピと同等に有能なのだ。そして、嘘をつくかつかないかだけがパピとの違いなのだ。原作・旧作映画とは異なり今作で彼のキャラクターに焦点が当たったことで、有能な側近として活躍する後日談が見てみたくなった。
  • 焦点が当たったと言えばピリポリス市民も言うまでもなくそうだろう。原作では契機さえあれば暴動を起こす群衆として処理されたが、今作では具体的な顔があり、生活コミュニティがあり、大統領パピの言葉を受けて考え、行動する市民として描かれていた。
  • パピの勝利条件はギルモアが独裁を観念することであり、それには市民の力が必要だった。パピは最後で対話による解決をギルモアに求めていたが、それに応じても解決にならないことは__彼が他人を信じられないことを抜きにして__彼自身がよく理解していたのであろう。ギルモアは仲間が居ないから負けたのだ。
  • 原作では、市街戦の戦闘機や戦車が有人かどうか言及されていなかったが、今作では無人であるとハッキリと述べられた。あんなバカスカやったら殺人になるゆえの配慮もあるだろうが、ギルモアの性格ゆえということでスムーズに受け入れられた。色々うまいなと思う演出の挿入があり、工夫を感じる作品だった。
  • 正しく「ドラえもん」していましたね。3回涙出ました。素晴らしかったです。