かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

考えて苦しむ時間は贅沢な時間であることを忘れないで欲しい。

「情報社会思想」はモラル系の教員五人が2~3回を担当して、情報社会の様々な考え方に興味を持ってもらう講義です。先日は哲学・倫理が専門の三人目のY先生が近代社会の批判について話をしました。履修している学生は、必修科目として参加するID生、選択科目として参加するIS生から成ります。この講義の様子を見ていると、IS生とID生の面白い違いを感じました。

Y先生は講義に入るととても速いスピードで喋りますが、頭に内容が入って来やすく、しかもほぼ噛むことがありません。Y先生がいかに頭の回転が早く論理立てて分かりやすく話すかについては、普段Y先生のゼミ室に滞在しているボク自身がよく知っていました。しかしY先生の話し方に慣れていない人にとっては、話を聴き続ける事にかなり労力が要ると思いました。

授業中に特に印象的だったのは、学生が板書をとるために必死でキーボードを叩いていることで、IS生にその傾向が強かったように思いました。IS生の中にはY先生の授業を受けるのが初めての学生がいるはずです。Twitterのタイムラインからも、そのような印象でした。

思うに、あの話を完璧に板書する必要などなく、そもそも聴いて即座に使える知識が与えられるわけでもないので無駄です。むしろ自分にとって面白いと感じる話だけ聴いて後は捨てていく、上手な聴き方を身につけるべきです。座学系の講義を多く経験しているID生は自然とそれが身に付いていたのかもしれません。

このような違いは、授業評価に対する考え方が主な原因のように思われます。2年前期ISプログラムの講義の半分以上がペーパーテストによるもので、つまり授業中にいかに知識を拾って理解したかが鍵になります。すると、自ずと板書をすることが目的化してしまうのです。情報社会思想を受けながら、IS生はこの姿勢を引きずっているように感じました。

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↑ボクの板書。言葉の扱いが苦手なのであえて言語化は控えて、図示を中心にしている。

「じゃあどうやって理解すればいいんだよ」というのは間違ってます。はなから理解できるなら講義に来る必要がないし、すぐに分かるような話題をY先生は話しません。「近代はどのような時代だったか」という課題も、分からない事について考えてもらいたい意図があったそうです。すぐに答えにたどり着ける思考に貪欲にならず、考える時間を無駄な時間だと思わないでほしいです。