かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

作品が人間に与えるエネルギーとは。

 全体で4分ぐらいある曲があったとして、「2分だけ聞かせますが続きは明日です」って言われたら、「なんでよー!今聞かせろよー!」となるはず。床に就いて眠りに落ちる間にも、「あの曲の続きは一体どうなってるんだろう」と考え、音楽を聴く習慣のある人ならばそれまでの蓄積から前半部分から繋がる数通りの後半部分を想像できるに違いない。

 また面白いことに、前半部分を聴いて持った曲のイメージが、明日後半部分も聴いて持ったイメージと一致するとは限らないだろうし、その展開や結びを受けて曲のイメージがガラッと変わるかもしれない。それは、前半部分で大いに曲のイメージを膨らませていた証拠であろう。

 前半だけ聴いて「この曲はこんなイメージなんだよ!」と断定する人はおそらくいない。そこで主観・主体的な感想・評価を求められているとしても、人間はなぜだか全体を踏襲してから物事を語ろうとする。世の中に放たれた完結した作品についてそういう傾向がある。歌曲・楽曲に関しては、再生して数分で視聴できるので感想を言いやすいが、何ヶ月にも渡って連載・放映される小説や漫画、ドラマやアニメなどはこうはいかない。

 しかし、それまでの展開(部分)からこれからの展開を予想して話題を共有する風景はよく見られる。作品はそれ自体が面白さを持つのみならず、面白さを人間が与えうる側面があるのだ。作品が提供しなくとも、人間が勝手に解釈を広げ、究極的には人間の方で作品を永遠にコミュニケーションの中で生かし続け、作品の消費者に二次創作行為にも及ばせる。作品は人間にアクションを起こすエネルギーを与えるのだ。