かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

コミュニティ、コミュニケーション、キャラクターの雑記

コミュニケーション不安

 インターネットの、例えば趣味とか専門分野の人々のサイトなりがあって、そこに存在するコミュニティに入ろうと思ったことがなかった。なかっただけに、コミュニケーションの仕方に悩む。技術系ならノリはだいたい共有されてるんだろうけど、世代的にどうとかね。浜松Rubyの会のように実際に会って話すのは全然平気なんだろうけれど、そうするときっとボクは、相手に気を遣い過ぎているだけかもしれない。

インターネットのコミュニケーションにおける了解

 Twitterをしていると、実際に大学で顔見知りの人でもTwitterのアイコンやそのアカウントのイメージが重なる事がとても多いし、ボクはTwitter漬けである。それはおいといて、ボク達のオンラインコミュニケーションのインターフェースとなってくれているのはインターネットだけじゃない事は了解されてもいいだろう。インターネットという層の上に、キャラクターという層がある。インターネット上のコミュニケーションでは、お互いにそれが了解されうる限りならば、ボクらはインターネットにおいて現実の身体から遊離して、キャラクター同士としてコミュニケーションする事が許されると思っている。いや、キャラクター同士で無くてもいいだろう。人間とキャラクター、人間同士でもいい。インターネットのコミュニケーションにおいて、了解という行為、突き詰めるならば空気を読む、文脈を読み取るといった高度な情報戦が核となるのではないか?

精神分析の斎藤環はキャラクター論を展開している。人間はキャラクターをまとい振る舞うことがあるという。斎藤を支持するとしたとき、人間は現実で行なっていた了解行為をインターネットでも同じ事をしていただけなのかもしれない。そこに匿名性が絡んでぐちゃぐちゃぐちゃ。いや、悪いことじゃない。

方針

この記事は書きながら内容を考えているので、とても雑だし読みにくい。その中で閃いて自分の興味関心のベクトルを発見することもある。ボクはどうやら、日本人のコミュニケーション論を学ばなければならなくなったような気がする。気がするというのは、データ工学にも興味があって、舵を取りきれないからである。とりあえず、今日はひとつだけ確認ができた。よかった。

以上