かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

書く訓練の遅れを取り戻すために

 

 書く,ということについて書こうと思う。

 

 僕は今まで書く訓練や話す訓練をしてこなかった。理系を選択してきたこと,たやすく他人に意見を求める性格でなかったことなど,理由を挙げれば「どう考えてもお前が悪い」としか言いようがない。きっと「研究者になりたい」と考える同じ年齢の人のなかには,今の僕と大きく差をつける積み重ねをしてきた人がいるだろう。それこそ,高校以前から意見を言い合う仲間を持ったり,ブログでこつこつと文章を公開したり,できる範囲のことをしたのだろう。そういう経験の有無が今になって重くのしかかってきている。「時間」の重みである。

 僕の良いところは,のほほんとしていられるところだと思う。たとえば,必要以上に危機感を持たないように心掛けている。ヒューマンエラーを防ぐために緊張感を持つのは大事だけど,精神的負荷を来たすレベルで危機感を背負うのは,リスク管理の本質ではないと思うからだ。「この人はいったい今人生のどの辺でこんな心配をしているんだろう」と思う人がいると思う。もちろん,10年刻みの遅れはなかなか取り返しがつかないだろう。でも,かりに高校を起点として考えるならばそこまで大きな遅れでもないでしょう,と思ってしまう。

 借りてきたような話だけど,インターネットが普及しまくった今では,特定スキルの熟達がとても楽になってきている。つまり,入門者を抜け出したけどプロまで十数歩手前みたいな人々が,どこの世界にもアホみたいに大勢いて,あわよくば最強キャラになれると思っている。かつて取り組んでいた将棋や競技プログラミングなんかがそうだと思う。でも,実際はプロになれるのはほんの一部の人々だし,絶対的経験量の「差」を過小評価してはならない理由はそこにある。

 

 ではどうするか。救いにはならないが,西原理恵子氏が「最下位による最下位なりの戦い方」という面白い体験談を書いていて,ある種の手がかりになるかもしれない。美大予備校の課題成績がほぼ最下位だった彼女は,様々な出版社を回り続けてエロ雑誌出版社の業界に落ち着いて仕事をもらった。そして,出身地にも由来する彼女独特の奉仕精神が売りとなっていく。小さな挿絵スペースに文章への鋭いツッコミを入れるなどして。彼女は「差別化」を図ったのだ。

(ここでブラウザバックする人の登場を想像する。)

 

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (よりみちパン!セ)

 

 

 世の中に溢れる文章には,注力して読みたいと思わせられるものがある。毎日朝食をとりつつ,はてなブックマークの新着と注目エントリ一覧に目を通せば,だいたい3,4個ぐらいそういう記事がある。それは,「その人が書くからこそ意味のある」記事であることが絶対条件である。誰でも書けるような事実の列挙ではなく,その人の視座を通しているからこそ読みたくなるのだ。そして,特別新しいことは述べていなかったりもする。新しくないことに触れていても,「あぁ,だからそういうふうに考えるんだ。この人おもしろいね」と関心を喚び起こす力がある。

 

 こう書くと,取り上げた話題に注目して欲しいのか,話題の取り上げる書き手に注目して欲しいのか,どっちを目的として書くのかという疑問が湧くかもしれない。僕はどっちでもいいと思うし,話題に注目して欲しかったらそういう書き方を目指すし,僕の考え方に注目して欲しかったらそういう書き方をすると思う。つまり,読者に多少の意図が透けるくらいには,目的に指向した「書き」があってもいいのだと思っている。書き手が自閉して,読み手に一方的に働きかけるだけの書く行為など,不可能だと思う。

 

 したがって,僕が先ず目指すのは,指向性の強い書き方を習得することだろう。これは目的や戦略の話であって,具体的な方法の話ではないし,わざわざここに書くことではないと思うので,書かない。