かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

日記

 「グローバル・コミュニケーション特論」という講義を取っています。ボクはシラバスを読みません。シラバスは約束の保険であって、実際の体験はリアルのなかにしかありません。記述知が体験知を超えられない以上、そこに参加するしかありません。だって、ボクは「その講義を知りたい」のであって、「納得のいく講義選択をしたい」わけではないのですから。ちなみに受講者は4人、みんな出身学科とプログラムが共通しています。

 グロコミは3人の教員が全15回中の5回分ずつを担当します。比較文学(フランス中心)の田中柊子先生、音楽社会学(ドイツ中心)の高岡智子先生、東南アジア史、植民地史(フィリピン中心)の岡田泰平先生。彼らの共通点といえば、情報社会学科の講師で、海外に研究対象があることです。いま、1/3の柊子先生(ボクはそう呼んでいる)が終わったところです。

 柊子先生は同一のテクスト(≠作品)が多国で展開される時の現地文化適応(翻案、アダプテーション)について取り上げました。例えば、米国版アニメ『ドラえもん』は一部の食べ物や日常品がアメリカ式に差し替えられています(箸→ナイフとフォーク、どら焼き→菓子パン、円→ドル、0点→F(落第)など)。これは、ともすればオリジナルの改変とも受け取られそうですが、本来は現地文化に適合させることで視聴者の受容を促す目的があると考えられます。

 アダプテーション分析にはどうやら決まりきった方法論がないようです。あるなら柊子先生は説明を行うはずだし、あえて隠す理由がないからです。授業では、リンダ・ハッチオン氏の定義を引用していましたが、元となる書籍についても言及していません。 やったことといえば、「エモい」「ググる」といった内輪で通じる言葉を誰もが分かるように説明すること、リメイクや多国間展開が行われたテクストについて内容と効果を説明すること、B級洋画のワンシーンに字幕・吹替えをつけること、イタリア人旅行記に見られる異文化体験の表現に関する分析を知ることです。

 でも、この授業方法を非難する気にはなれないんです。だって、少なくとも授業を受ける前よりは、アダプテーションに関する理解が得られている自信があるからです。それに、柊子先生は一方的にアダプテーションはこうだ、という押し付けをするのではなく、積極的にボクたちにアダプテーションと感じるものについて語らせました。この一連の語りの作業が無意味だと断定するには、性急なものを感じずにはいられないのです。その正体をこれからの授業のなかで掴めれば・・・という希望を持っています。

アダプテーションの理論

アダプテーションの理論