かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

初音ミクとメタ複製技術、新しい天使、廃墟とは

はやく初音ミクになりたいすねおです。

サイエンスカフェ協賛イベント(情報学研究交流会)のお知らせ | サイエンスカフェ in はままつ

今週弊学で行われた研究交流会「デジタルメディアとしてのボーカロイドと社会情報学」に、以前ヤマハボーカロイド事業のプロジェクト・リーダーをされていた剣持秀紀氏と、学習院大学教授で社会学者の遠藤薫氏がいらっしゃいました。

特にボクが興味を持っていたのは遠藤薫氏で、初音ミクを通してベンヤミンを再読し、現代は「メタ複製技術」の時代であるとする著者『廃墟で歌う天使』の議論がベースの報告を聞くことが出来ました。 

当然書籍を購入して予習していたのですが、シンポジウムの時間内では完全に理解することはできませんでした。そこで遠藤氏の意見を私なりに理解してまとめようとするのが本記事です。したがって、ベンヤミンの複製技術やアウラといった基本概念を前提知識としています。

複製技術とメタ複製技術はなにが違うのか?

その技術が対象とするモノが現実であるか、そうでないモノ(=<非在>)であるかです。例えばベンヤミンのいう複製技術には、写真や映画、レコードがあります。これらはすべて現実の風景・空間、もしくは人間の声を編集(mediate)します。対して、初音ミクは<非在>(=非現実空間にしか再現され得ないもの)であり、写真に撮れなければ映像も撮れません。このように対象の<非在>性が強調される理由には、メタ複製技術によって再生産された<非在>なモノが、現実空間へと

初音ミクが<新しい天使>であるとはどういうことなのか?

「天使」がメディアを意味することを踏まえれば、「初音ミクはどのようなメディアか」という問いは「初音ミクはどのような天使か」という問いに置き換えられます。ベンヤミンが行動を共にしていた画家クレーの絵「新しい天使」もまた、ベンヤミンの期待するメディアを象徴するものでした。つまり、天使という概念を媒介として、初音ミクベンヤミンの期待するメディア=新しい天使(の象徴)という図式が成立するのです。

この理解に到達するまでに、ボクの脳裏には「こんなにかわいい初音ミクさんが天使でないわけないだろ!」といった文言が焼き付いて離れなかったがために、正確な理解ができずにいました。よくないよくない。

廃墟とは?

蓄積されていく二次創作のことです。廃墟といえばディストピア的な響きがしますが、ベンヤミンの批判する権威主義的な芸術をユートピアと捉えれば、廃墟はユートピアへの皮肉としてのディストピアであると考えることができます。新しい天使はそんな光景にワッと驚くのです。下に、新しい天使に関する記述を遠藤薫氏から二重引用します。

<新しい天使>と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。…カタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。…強風は天使を、かれが背中を向けている未来の方へ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、(この)強風なのだ。(ベンヤミン『歴史の概念について』(今西仁司訳))

まだよくわかってないこと

人形史と絡ませる意味。心身二元論モナド論と絡ませる意味。それと複製技術との関連。

 

以上。