かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

大学の学生自治モデルを「生徒会もの」に見い出せ

後輩氏が卒研の研究テーマで隣接的に学生自治を扱っていて、シャワーを浴びながら、「大学生ってもっと自主的に活動しているものだと思っていた」という話を思い出していた。これは、静岡大学浜松キャンパス委員会組織の配属システムや活動状況を総合すると、学生の能動的な自治活動を促すようなものにはなっていないのではないか、という氏の認識が下敷きになっている。ただし、生協委員駅伝委員などの諸活動における活躍をひとくくりに否定するものではなく、あくまで「部分の総合としての全体」ではなく「全体としての全体」に対する認識であると、私は理解している。

そんな認識を仮定したとき、理想的な自治活動に現状が追いついていないのではなく、理想的な自治活動というイメージ自体を氏と私が勝手に措定しているに過ぎないのではないか、という疑問が生じてくる。そもそも、大学生が自治活動するものだという想像力普遍的なものなのだろうか。私が辛うじて得た想像力は、院に入ってから読んだ木尾士目の『げんしけん』の学生自治会ぐらいである。これについては機会があれば氏に直接聞いてみたいと思う。

自分の話が続いて恐縮だが、学生自治を感じる作品といえば中高を舞台にした「生徒会もの」が思いつく(この場合「生徒自治」が語として適切だろう)。学園ハーレム(を目指す)ラブコメ葵せきな生徒会の一存』が有名だろう。ちょうど高校時代に読んでいて、もちろんあのようなファンタジーに満ちたハーレム美少女空間は存在しないが、彼・彼女らの主体的な発想力や行動力には憧れ、実際に自分も生徒会で情報リテラシを活かした広報諸活動に力を入れた記憶がある。

最近久しぶりに会った一番親しい後輩のN君は、高校生徒会時代、それこそ私を「センパイ」とか「副会長」とか呼び方に強いこだわりを持っていて、それは現実の立場の尊重とは別の次元で、「センパイ」「副会長」と呼ぶ自分(N君)という関係を指向していたように感じられる。本人に確認したわけではないので憶測になってしまうが、西尾維新の熱烈なファンであったN君も、リアルな関係にファンタジー的な関係を重ねて娯楽性を見出していたのではないかと推測している。

このように、生徒自治のイメージは生徒自治主題とした作品メディアによって、構築されていたのではないかと思うし、共有のしやすい手ごろな想像力ではないかと思う。それは例えば溝上慎一の『現代大学生論 ~ユニバーシティ・ブルーの風に揺れる』に代表される昨今の大学生論で指摘される、高校の延長線上の意識を持った受動的で非主体的な「生徒」とは一線を画したイメージをきちんと湛えている。

大学生になっても高校生気分は卒業しなくてもよいのだ。現在の日本は大学進学が珍しくないのだから、むしろ高校と大学のあいだに線を引くことのほうがおかしいのである。このような形式的な線引きが高校生気分が秘めるパワフルな主体性能動性を剥奪する方向に働かせるのだとすれば悲しい。学生自治のモデルは「生徒会もの」にこそ発見できるかもしれない。今こそ丁寧に再読・見直され、評価されるべきだ。