かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「セクシュアリティ」の本質は多様性なのか?

よく、セクシュアル・マイノリティ系の団体などのスローガンに、「セクシュアリティは虹のようなグラデーションだ」などと、セクシュアリティの多様性を説くものがある。ここで筆者は、より概念論的な説明を行うものとして、植村恒一郎(2014、p.144)の「セックス」概念との対比による次の解説を紹介したい。多様性ではなく個という視覚から論じるものである。

 

セクシュアリティ」は、生きている人間一人一人がもつ性的な欲望、観念、意識である。それは主体である個人に即して存在する規定であり、自分で見たり感じたり想像したりする体験から成っている。その内実は、異性愛性同一性障害、同性愛では大きく違うであろうし、同じ異性愛であっても、一人一人微妙に異なっているだろう。

有性生殖生物に汎通的な規定であるオス・メスに関わる「セックス」とは異なり、「セクシュアリティ」は何よりも人間学的な「性」概念であり、個体差を大きく許容する概念なのである。 

(植村2014、p.144)*1

例えばボクは、属性として見たとき、MtFトランスジェンダーであり、女性同性愛者である。他にもこの属性の組合せの人々は存在するだろう。しかし、ボクはその人々と同質のセクシュアリティとは限らないと思う。だいいち、筆者は人生を異性愛者として出発し、途中から性自認の変容を経験したことで自動的に同性愛者に移行しただけであり、同性愛者としてのアイデンティティ意識は薄いのだ。同じトランスジェンダーでも、性自認の変容の過程は様々であることは想像に難くない。

「結局同じトランスジェンダーなのでは?」と思われる方々もいるかもしれない。しかし、仮にボクが他のトランスジェンダーの人に会ったとして、「自分も“同じ”トランスジェンダーなんですよ~」などと暢気に同調を図るのは躊躇するし、相手から言われるのも抵抗がある。自分の生きてきた性の経験(セクシュアリティ)を、ただの一言でまとめられて、簡単に他人に理解されてたまるか、という挟持があるのだ。

つまり、個の主張、これがセクシュアリティ概念の本質であると思う。多様性、ダイバーシティという言葉がメディアに踊るにつけ、「LGBT」という略式化されたカテゴリ群によってセクシュアル・マイノリティを説明しようとする動向を見るにつけ、この点が見過ごされないだろうかと、ボクはとても不安になるのだ。

*1:植村恒一郎『「ジェンダー化されたセクシュアリティ」について―― あるいは「セクシュアリティジェンダー化」とは ――』(群馬県立女子大学紀要 第35号、pp.143-153、2014年2月、https://gair.media.gunma-u.ac.jp/dspace/bitstream/10087/8232/1/12_UEMURA.pdf