かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「見るに堪えないネット」をとらえる視点について

情報環境
 世代の離れた大学教授と話していると、学生がネットでどのような情報行動をしているのか上手く認識出来ていないように思うことが多くなった。学生側も認識がずれていることに気づきにくいようである。自身の置かれた情報環境を自明とせず、適切な言語で表現できるようになることは、情報学を学ぶ学生のスキルとして数えてもよさそうだ。しかし、「情報社会」という雑多な括りにおいては、誰も彼もが「情報社会に生きる人々」として雑多なデカい主語になり、その多様な経験の存在と境界があいまいにされる。ここで、個々人の情報環境の差異の記述はひとつの主題になりうるはずだ。デジタルネイティヴの概念には、情報機器に強いだけで終わらせられないもっと奥の深い広がりを期待してもよいはずだ。

見るに堪えないネット
 情報学というパイオニア的な領域においては、更新スピードの速い情報文化世界のなかで、最先端の感性を既存の文脈の上に位置づけるという作業が重要な意味をもつ。学部生の書く卒業論文は結果的にそのような役割を担っていると思う。毎年の中間報告と最終報告のテーマ一覧を読めば、その代の興味関心が何となくつかめるものである。しかし、まだまだアンダーグラウンドな領域が引っ張り出されていないのが実情ではないか。ネット炎上も随分見慣れた事件になってきた。ヤフーニュースに見出しが乗るレベルの説明のしやすい上澄みされた「見るに堪えるネット」をもって、今の情報文化の全てを説明できると言えるだろうか。「見るに堪えないネット」は議論の対象として価値が無いのだろうか。

ふたたび情報環境
 研究の難しさはさておき、このような問題意識を持った筆者は、どうすれば「見るに堪えないネット」をローコンテクストに記述できるだろうかと考えた。記述そのものよりも、その方法論や観点に興味があるのである。例えば百科事典サービスの「ニコニコ大百科」のようにWikiシステムで膨大な記事を書き上げたいのではない。問題なのは、ニコニコ動画のコンテンツのありようがニコニコ動画という情報環境とどのように結びついて理解されるのかである。Youtubeではどうしてダメなのか、という言い換えでよいのかも知れない。その意味で、筆者はニコニコ動画という情報環境を分析したいのだろう。あるいは、ニコニコ動画とYoutuber、Twitterや旧2ちゃんねる同士を俯瞰するメタな情報環境の主体そのものと言ってもよいだろう。このようにして、「見るに堪えるネット」「見るに堪えないネット」ではなく、それらを見る主体が問題になのである。