かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

オレオレ倫理

ツイッターで何か言おうとしたけど、具体的な誰かのことを思い出して、あの人は嫌な思いをするかもしれないと想像して、ツイートをひっこめる。こうした想像と実践のことを、かりに倫理と配慮と呼んでみよう、そう考えるようになった。

大学用アカウントには見知った人もそうでない人もいる。見知った人については、だいたいどのような人物であるかが分かるし、そうでない人については、普段のツイートやアクティビティ欄でおおまかな傾向なら把握できる。でも、その人たちすべてのバックグラウンドは知らない。それなりに多くの時間を共に過ごしていても知らない側面はあるし、知ったつもりになるのは傲慢というものだ。こちらから思い遣った行動が実際に思い遣っていることになっていなかったりすることはあるし、逆に平気だと思い込んでしゃべったことが誰かを傷つけていることだってありうる。

ボールを投げてみなければそこにあるかどうかどうかわからない透明なガラスを探すことはできないが、ガラスはボールが当たれば割れてしまって取り返しがつかない。ちなみにこのガラスは音もなく割れることもある。こんな話はべつにツイッターに限らないけど、ツイッターにはバックグラウンドのヒントっぽい情報の断片がいっぱい落ちているだけに、現実よりも多くのことを知っているような気分になれてしまうし、そのことがツイッターにも現実にも影響する。

ーー念の為言っておくけど、何か悲しい人間関係の不幸があったわけではないし、自分の精神衛生は健全だし、周囲で何かを見たわけでもない。むしろ貴方が何かを探ろうとするなら、徒労であると釘を差しておきたい。すねおはこういう話題を突拍子もなく開始する人間である。

自分が思っているよりも、知人のことはよく知らないのではないか。人のバックグラウンドは不可視的である。そのような状況での配慮は、とんでもなく無際限なものになることもありうる。それではきりがないので、知人のことはよく知らない、というところから出発して考えてみる。それが、自分がかりに倫理と呼んでみるものである。

なにか学術的な関心で読まれている人には申し訳ないけど、倫理について何も勉強したことがないので、実際には不正確なオレオレ倫理になっていると思うし、実はまったく別の概念かもしれない。でも、倫理という言葉以外での呼び表し方が不学な自分には判らなかったのでこうしておいた。何が適当な分析概念であるかは大事な問題であるけど、自分にとっては何を考えたいのかも同じくらい大事な問題だ。

どこか脅迫めいた説教臭い文章になってしまった……。でも、自分で自分に説教する為に書いているので、その点は安心してほしい。みなさんがこの文章を各々にインストールしたとき、自分の自分に対する説教にはなっているかもしれない。