かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

ウマ娘をきっかけにベンヤミン(の解説)を読み始めた

ウマ娘がきっかけで、多木浩二の『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を読んでいます。

ウマ娘ってどうして面白いんだろうって考えたとき、まず、1回として同じ育成体験がほぼ存在しないことに気付くことができます。

たとえ初期パラメータが同じでも、練習成功率・イベント発生率・スキル発動率・因子ガチャなど、数え上げればキリのないあらゆる確率パラメータの不確実性に支配されたシミュレーション世界の中で、ただの1頭として居るかのように育成ウマ娘はプレイヤーの前に姿を顕し、体験を共にするような感覚をトレーナーとしてのプレイヤーに与えるわけです。

言い換えれば、再現性なきプレイ体験、限りない一回性を有した体験であるわけです。誰が何度やっても同じ結果になるのならば、すぐさま必勝法が編み出され、その攻略法の実戦がつまらない「作業」であることを我々はよく知っているはずです。

すでにこの2段落で言いたいことは言い切っているのですが、この一回性というキーワードから議論がもっと掘り下げられないかと考えています。一回性というのは、ドイツの社会学者・ベンヤミン(1892-1940)が提唱した「アウラ」という概念の説明によく用いられるキーワードです。

考える足掛かりが得られるといいのですが。とりあえず勉強になったことを挙げていきます。 

ベンヤミンは、芸術作品の質が凋落することではなく、これまで形式/内容の枠組みで捉えられてきた、いわば自立的な芸術理論が根底から崩れていく歴史を感じていたのだ。」(pp.13-4)

アウラの喪失」という言葉から受け取るネガティヴな響きから、てっきりベンヤミンは芸術作品の退潮を悲観しているのかと思っていました。でも、彼が歴史の視点で考えているなら話は別ですね。歴史学者は別に国が滅ぶことをいちいち悲観しているわけではなく、滅ぶ過程や歴史事実に着眼しているに過ぎないからです。

「彼の関心は、当時の社会的条件のもとで「芸術」と、それを受け取る人間の関係がどんなに変わったか、その傾向を捉える諸概念を探求することであった。……この歴史的変動を無視し、すでに効果を失っている「芸術」に関する伝統的な諸概念(「創造性や天才性、永遠の価値や神秘の概念」)を温存するなら、「芸術」はファシズムによって巧みに利用されてしまうと彼は考えたのである。」(p.18)

ベンヤミンは「芸術」の常識的な諸概念が、政治的に危険なものにおなりうることをよく知っていた。「芸術」はすでに絶対に不変でも、不滅のものでもなくなり、思考によって「芸術」となるものであった。」(p.18)

 この辺りは、ベンヤミンユダヤ人で、ナチス政権が成立した時代背景から補助線が引けますね。ナチスは当時の芸術を「退廃芸術」として否定し、古典主義を礼賛する芸術政策を行っていました。けっきょく芸術はそれ自体に備わっているのではなく、人間が与えているのだということを彼は観察していたのでしょう。

ベンヤミンにとっては複製技術を考察するとは、たんにそっくり再現する技術を問題にするというより、制作と受容を同時に包み込んだ世界の全体を考察する水準を発見するまで考え抜くことになっていったのである。」(p.35)

ここには、芸術と受容者との間に起こる作用に着眼しようとするベンヤミンのモチベーションが感じ取れる。

「芸術作品の技術的な複製は、芸術が根づいてきた価値の伝統を崩壊させる。……複製に欠けているのは「いま、ここに在る」ことである。芸術作品は「この一回限りの存在によってこそその歴史をもつ」。……「オリジナルがいま、ここに在るという事実が、その真正性の概念を形成する」伝統は、この真正な芸術を、同一のものとしていままで伝えてきたということに根ざしている。」(p.41)

これは、例えばモナリザを写真に撮ったらモナリザ本体の価値がなくなるみたいな話ではなくて、最初から複製技術で生産された芸術についての話をしているはず。

例えばベンヤミンの時代に広まった写真は、プリントされた写真が初めからあるのではなく、複製元となるネガフィルムのような物理データがあって、そこから焼き増しして生産されるものです。そんな写真にとっての真正性とは何でしょうね。そんな芸術作品が世に氾濫した社会はどうなってしまうのか、そういう問題意識なんだと思います。

 

3章までで読書メモいったん終わり。
思ったよりも分量が少ないので、通勤中に読むのにちょうどいいです。