かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

『推し、燃ゆ』解説・感想(ネタバレ有) 

解説パート

主人公の高校生・下山あかりの「推し」であるアイドル・上野真幸(まさき)が炎上するところから物語が始まり、炎上した「推し」の芸能活動の動向に、彼を推すあかりは翻弄されていく。大体こんなあらすじです。

この物語はあかりの視点だけで展開されます。それはただの一人称を指すに留まらず、彼女の身に起きる出来事のすべてを彼女の意識に流れる時間とほとんど同期しながら克明に描写していく独特の文体が、この作品を特徴づけています。

(以下、引用ページ数は河出書房新社の書籍のものです)

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

……風が鳴っている。戸口を閉めるごろついた音、波打つガラス戸の外から聞こえる二次会がどうとかいう声、幸代さんが食器を洗って立てかけていくとき特有の硬い水音、換気扇と冷蔵庫の音、店長の「あかりちゃん、落ち着いて、落ち着けば平気だから」の柔らかいの声、はい、はい、すみません、と答えるけど落ち着くってどういうことだろうせわしくなく動けばミスをするしそれをやめようとするとブレーカーが落ちるみたいになって、こう言っている間にもまだお客さんはいるのにと叫び出す自分の意識の声、体のなかに堆積したそれがあふれて逆流しかける。さっきから大量につめ込んでいる、自分のだかお客さんのだかわからないすみませんで窒息しそうになり、あたしは黄ばんだ壁紙と壁紙のめくれた継ぎ目のあたりにかけられた時計を盗み見る。(pp.49-50)  

このようなモノローグともつかない実況が一文続きで何度か展開されるのですが、これは「生」の体験そのものと言っても過言ではありません。彼女が自らの身体をしばしば「肉」と表現するところには、自身の身体を客体としてみなすひどく即物的な態度が現れています。

……肉体は重い。水を撥ね上げる脚も、月ごとに膜が剥がれ落ちる子宮も重い。……
 保健の授業を担当しているのも京子ちゃんだった。あっけらかんとした声で卵子とか海綿体とかいうおかげで気まずくはなかったけど、勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛かった。
 寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。(pp.8-9)

要するに、彼女にとって肉体は生命活動におけるコストとして強く意識されているのです。彼女がたびたび用いる「肉体の重さ」という表現には、まさに負担的な側面をとらえているものと考えが現れています。

作品のかなり冒頭で、その「肉体の重さ」についた名前として、あかりは病院で2つほどの診断名をもらったことが語られます。その具体名は最後まで明かされないものの、その内容を仄めかすエピソードが物語中に幾度なく挿し込まれます。

私は発達障害の当事者なので、冒頭のエピソードが「ADHD(注意欠如・多動性障害)」の特徴を示していることは容易に理解できました。そして、もうひとつの診断名はおそらく「LD(学習障害)」でしょう。

……母はよく姉のひかりとあたしをお風呂に入れて、九九を言わせたり、アルファベットを覚えさせたりして、それができると上がれるというようなことをやった。あたしはいつまでも上がれなかった。いろんな文字と、姉の唱えている言葉がうまくつながらなくて、頭が白くなってきたあたりで母にもういいよと言われ抱きかかえられるようにして上がる。(p.53)

 漢字の五十問テストでも同じことだった。あれもやっぱり、満点をとれるまで何度も提出させられる。……放牧放牧放牧。所持所持所持。感じる感じる感じる感じる。完璧にしたと思った。前回放牧と書いてしまっていた放牧は順番通りに書けた。持つの手へんをにんべんにしたけど、所、は書けた。感じる、の上が思い浮かばず、心じると書いていた。前回できていた漢字もいくつか間違え、結局点数は一点しか上がらなかった。(pp.54-5)

あかりは高校で原級留置に追い込まれるほど学力の低い生徒です。しかし、けして彼女は能力ない人間なのではなく、「推し」を理解するために行っている情報収集・情報整理に関しては凄まじい能力を発揮するのです。そのことが彼女の壊滅的な生活能力と並置して何も矛盾の無いかのように語られるところに、彼女の特性が表現されています。こうしたあかりの振る舞いは、人の能力とは何なのかという問いを私に突きつけてくるようです。

 観終えてからまた戻し、ルーズリーフにやりとりを書き起こす。推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう。ラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞き取り書きつけたものは、二十冊を超えるファイルに綴じられて部屋に堆積している。CDやDVDや写真集は保存用と鑑賞用と貸出用に常に三つ買う。放送された場組はダビングして何度も観返す。溜まった言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにあった。解釈したものを記録してブログとして公開するうち、閲覧が増え、お気に入りやコメントが増え、〈あかりさんのブログのファンです〉と更新を待つ人すら現れた。(p.17)

……部屋は脱ぎ散らかした服と、いるから放ってあるのだかわからない中身の入ったペットボトルと、開かれたままうつぶせになった教科書や挟まったプリントやらで乱れきっているけど、青碧色のカーテンと瑠璃色のガラスでできたらんぷのおかげで入ってくる光と風はいつも青く色づいていた。……

 この部屋は立ち入っただけでどこが中心なのかがわかる。たとえば教会の十字架とか、お寺の御本尊のあるところかみたいに棚のいちばん高いところに推しのサイン入りの大きな写真が飾られていて、そこから広がるように、真っ青、藍、水色、碧、少しずつ色合いの違う額縁に入ったポスターや写真で壁が覆い尽くされている。棚にはDVDやCDや雑誌、パンフレットが年代ごとに隙間なくつめられ、さらに古いものから地層みたいに重なっている。(pp.36-7)

 推しの基本情報はルーズリーフにオレンジのペンで書き込み、赤シートで覚えた。一九九二年八月十五日生まれ、獅子座、B型、兵庫県生まれ。兄弟は四歳離れた姉がひとり、……

 推しが出ていた舞台の時代背景は地図を作ったり相関図を書いたりして調べるから、ロシアの情勢にやたら詳しくなってその範囲の歴史の試験だけ突然点数が高くなったりすることもある。ブログを書いてもパソコン上では文字を勝手に変換してくれるから、生徒で作文の回し読みをして誤字を指摘されるときのような気まずさも感じなかった。

 推しを本気で追いかける。推しを解釈してブログに残す。テレビの録画を戻しメモを取りながら、以前姉がこういう静けさで勉強に打ち込んでいた瞬間があったなと思った。全身全霊で打ち込めることが、あたしにもあるという事実を推しが教えてくれた。(pp.63-4)

原級留置の危機や就職活動の必要性が迫っていることについて、周囲の大人たちは彼女が困った状況にあるとして声を掛けます。しかし、あかりはある意味では何も困っていないのかもしれません。「推し」を推すことが彼女の至上価値であり、それをまっとうする限り彼女は幸福でいられるからです。そして、何も困っていないがゆえに何を困ればいいのかが分からずに悩んでいるのです。このことが本人と周囲に大きな溝を作ってきました。

 あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。(p.37)

……いつものごとく、母が勉強のことであたしを叱り、あたしが「やってるよ、頑張ってるよ」と脱衣所に向かって声を張ると、勉強していた姉がいきなり手を止め、「やめてくれる」と言い出したのだった。
「あんた観てると馬鹿らしくなる。否定された気になる。あたしは、寝る間も惜しんで勉強してる。ママだって、眠れないのに、毎朝吐き気する頭痛いって言いながら仕事行ってる。それが推しばっかり追いかけてるのと、同じなの。どうしてそんなんで、頑張ってるとか言うの」
「別々に頑張ってるでいいじゃん」(pp.56-7)

 留年するなら退学するとか、退学したらどうするのとか、家族で何度もした会話と似たようなことをひと通りしゃべったあとで、担任は「勉強がつらい?」と訊いた。
「まあ、できないし」
「どうしてできないと思う」
 喉が押しつぶされるような気がした。どうしてできないなんて、あたしのほうが聞きたい。涙がせりあがる。あふれる前に、にきび面の上にさらに泣き出したらさぞかし醜いだろうと思い、とどまった。(p.74)

……父や、他の大人たちが言うことは、すべてわかり切っていることで、あたしがすでに何度も自分に問いかけたことだった。
「働かない人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌をとらなきゃ死ぬんだから」
「なら、死ぬ」
「ううん、ううん、今そんな話はしていない」
宥めながら遮るのが癇に障った。何もわかっていない。推しが苦しんでいるのはこのつらさなのかもしれないと思った。誰にもわかってもらえない。
「じゃあなに」涙声になった。
「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」
「またそのせいにするんだ」
「せいじゃなくて、せいとかじゃ、ないんだけど」(pp.91-2)

あかりの苦悩は、彼女の自己存在についての問いと深いつながりがあります。

誤解を恐れずに言ってしまえば、あかりは人間よりも動物に近い人間であり、あまりそのことを自覚していない人間なのです。動物は棲み家の片付けや掃除をしませんし、算数や漢字を覚えません。複雑で割り込みの入る仕事をこなすようにもできていません。ただそれだけなのです。

あかりはただそうして生まれてきただけに過ぎないので、勉強ができない理由も、人間らしい生活が送れない理由も、本人にはわからないのです。この答えのない問いによる苦悩は、セクシュアルマイノリティの苦悩にも通ずるものがあります。

……なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。(p.123)

物語の終わりに「推し」をうしなった彼女は吹っ切れて、自分なりの生きる姿勢を見出します。四つん這いの姿勢で生きようとする彼女は、動物としての人間であることを自覚し、そんな自分を初めて許すことができたのかもしれません。

「推し」と向き合うことで「肉体の重さ」から逃れられたあかりが、推しとの別れを通して「肉体の重さ」と付き合いながら生きる方法を発見する。「推し、燃ゆ」はそんな物語ではないかと思います。

 這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。
 二足歩行は向いてなかったみたいだし、当分はこれで生きようと思った。体は重かった。綿棒をひろった。(p.125)

感想パート

発言録をファイル管理するくだりで、学生時代に私が塾講師アルバイトで出会った中学生の女の子を思い出しました。その子はボーカロイドの「鏡音リン鏡音リン」が好きで、手作りのリン・レン歌曲の歌詞を収集したクリアファイルを塾で見せてくれたことがあり、その分厚さに感心した記憶があります。

彼女は勉強に関しては標準的な実力でしたが、クリアファイルから感じ取った熱意やエネルギーは、今思えば「推し」に対するそれにとても近いものだったと思います。そういう経験をしているので、やっぱりあかりの推し活動に強い現実味を覚えてしまいます。

さっきも書いたように私は発達障害の当事者なのであかりがもの凄く発達障害っぽいなと感じたんですが、あえて診断名が伏せられたのはそれに対する誤解や偏見を煽らないようにするためというよりも、その名前に対する読者の先入観があかりの人格理解を邪魔しないようにすることの方が大きいような気がします。ひとくちに発達障害と言っても症状や程度は個人によって様々なので。また、安易な生きづらさへのラベリングや共感を拒否する意思も多少感じられるような気もします。 

あかりが何にどう苦しんでいるのかは、徹底的にあかりの視点で描くことでしか表現しようが無さそうです。する必要ないですけど、映像化の難易度がかなり高いんじゃないですかね。文学の力を感じました。あとは、あかりVR

それを置いておくにしても、誰にどういう取材をして、あるいは本人がどういう体験をしたら、あんなに発達障害の当事者の感覚に即した言語化ができるのかが甚だ疑問です。そこは著者の力量・技量と言うほかないのでしょう。執筆秘話があったら読みたいくらいです。

この作品が芥川賞で話題になった昨年秋には、アイドル推しの主人公という要素が注目されたためか、オタク属性に着眼した感想がたびたび見られたのですが、実際に読んでみるとオタクであることはどちらかといえばおまけであかり本人も結構それを対象化しているところがあるし、結局オタクっていうフィルターであかりを捉えるのは、あかりの人格を矮小化してしまってるんじゃないのかな、という違和感が残ります。あかりをあかりというキャラクターとして見ることを難しくしちゃいますよね。

実際あかりはキャラを演じられない自分をよく自覚している場面があります。

前の席の男子がすらりと立ち上がって只野の机の前に行き、すませえん、忘れましたあと言う。周りがちょっとわらう。あたしもついていってすみません、忘れましたと言う。あたしはわらわれない。「おバカキャラ」とか「課題さぼりがちキャラ」になるには、へらへらとした感じが、少し足りない。(p.25)

安易な理解を拒絶し、説明不可能な自己を生きるあかりは、不器用で不憫、しかしとても強かな人物に映りました。

読めてよかったです。