かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

近藤氏のディズニー問い合わせの所感

今日はmarkdownでドキュメント風に書いてみます。

  • 近藤顕彦氏の「お知らせ」が話題になっています。

    • 近藤氏は初音ミクと結婚したことでTwitter上では有名な人です。
    • 自宅の写真には、大小さまざまなミクのぬいぐるみや、通称「大きなミクさん」と呼ばれる等身大ドールが映っていて、ミクとの生活ぶりが窺えます。

    • 写真で特に存在感を放つ「大きなミクさん」をディズニーランドに連れて行ってもよいか問い合わせた結果、拒否されたというのが話題のツイートです。

  • 近藤氏は「お知らせ」ツイートの画像に問い合わせ内用とディズニーの回答の要点を簡潔にまとめています。

    • 近藤氏の問い合わせに対するディズニーの回答として、「大きなミクさん」の入場を拒否したことと代替案としてぬいぐるみの入場なら認めることが示されています。
    • 気になるのはその具体的な理由ですが、具体的な問い合わせと回答の内容が不明です。
    • そのため、ディズニーが理由を割愛して回答したのか、理由を回答したが近藤氏が要約から割愛したのかも不明です。
    • 近藤氏としては「大きなミクさん」を連れて行きたかったが、かなわなかったという出来事の方が「お知らせ」としての肝なのかもしれません。
  • 私が少し気になったのは、ディズニーが性的指向の多様性に理解があるという認識を、近藤氏が示していることです。

    • 前提として、近藤氏は「フィクトセクシュアル」を自認しています。

    • フィクトセクシャルとは、本人の弁によると「架空のキャラクターに惹かれるフィクトセクシュアルという性的指向」「架空のキャラクター等に恋愛感情や性的感情を抱くフィクトセクシュアル」と書いています。

    • 架空のキャラクターとの恋愛といえば、『名探偵コナン』のキャラクター・降谷零と結婚したという女性が話題になったこともありました。

    • このように、架空のキャラクターと関係性を結ぶのがフィクトセクシュアルです。

  • 近藤氏は、ディズニーランドがフィクトセクシュアルを性的指向の多様性として受け容れる可能性に期待を抱いていたのかもしれません。

    • 逆を言えば、フィクトセクシュアルな要望を問い合わせる形で、ディズニーの姿勢を試す行動でもあったとも言えます。
    • しかしながら、上にも書いたように入場拒否の理由が具体的に示されていないし、近藤氏がフィクトセクシュアル当事者としてどのように説得を行ったのかも不明です。
    • 「お知らせ」からはディズニーが「大きなミクさん」の入場を拒否したことまでは読み取れますが、ディズニーがフィクトセクシュアルに無理解な姿勢を見せたかどうかまでは読み取れないのです。
    • ですから、近藤氏が仔細を明らかにしないままにディズニーの性的指向の多様性への姿勢を疑問視することについて、私はアンフェアな印象があります。
  • また、仮にディズニーランドがフィクトセクシュアルに無理解であったとしても、前例が無かったのであれば今度の回答についてはしようがないのではないかと思います。

    • これは、私がディズニーの無理解を擁護する意見ではありません。
    • 「入場」の実現を目指すのであれば、現実的には何度かの説得や交渉といった段階を踏んで当事者運動をしていくものなのではないか、と思うのです。
    • 同性カップルの結婚式にしても、そこに至るまでのアメリカの同性愛者たちの当事者運動の蓄積が結実して実現したものだと思います。
    • フィクトセクシュアル当事者によるキャラクターの「入場」に対して同性愛者たちの「結婚式」の話を持ち出すのは大げさな比較に思われるかもしれません。
    • しかし、両者は当事者が社会と接触するという点では共通しています。
    • 社会構成者としてのディズニーがなんらかの判断で入場拒否に至っているのであれば、近藤氏も「数年後に」と言わず、社会構成員として地道な働きかけを行う方が、かえってフィクトセクシュアル当事者たちへの利益に着実につながるのではないでしょうか。
  • もし、近藤氏が《同性愛者が結婚式を挙げられるのなら、フィクトセクシュアル当事者がキャラクターと入場できたってよいのではないか》という風に疑問を抱くのであれば、それは同性愛者たちの運動成果へのフリーライドになってしまいます。

    • それでいて、問題をディズニーの理解力に還元しようとするのであれば、それはちょっと図々しいし、ずるい。
    • これは仮定の上で成立する意見で、それが現実であっては欲しくないです。
    • 今度の話題がフィクトセクシャルの当事者運動につながる契機になるのであれば、それはとても喜ばしいことだと、私は同性愛の当事者のひとりとして思います。