かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

映画『すすめの戸締まり』を観た

注意:『すずめの戸締まり』『ちむどんどん』『ジョジョリオン』(ジョジョ第8部)のネタバレあり

 

今回、何も前情報を入れずに、大学の仲間と観に行った。

あらすじも知らなかったけど予告編くらいは観てもよかったかもしれない。

ネタバレがあったとすると、順路の「アラート音声が鳴るので注意してください」という旨の貼り紙と、舞台挨拶中継の感想メッセージボードの言葉くらいだろう。

たまたま公開一週間後に行われた舞台挨拶は全国343の映画館に同時中継されていて、浜松会場では拍手も起こらず、みな静かに中継を見守っているのが分かった。

休日前とはいえ、平日夜の客席は半分ほどの埋まり具合だった。

子どもがいなかったことを除けば客層に偏りは感じられなかったので、色んな世代の色んな人が来てくれているという新海監督の観察はだいたい合っていたんだろう。

 

作中、特にミミズ退治のシーンで何度か鳥肌が立った。

登場人物の言葉にこみ上げるシーンもいくつかあったと思う。

ストーリーを思い出しながら書いていく。

 

すずめの朝食シーン。

環が訛り口調で話すのに対してすずめが共通語を話していた。

二人は直接の親子でないのかもしれない。

昼休みにクラスメイトと会話するシーンでもすずめだけは標準語を話していた。

冒頭の幼少期の回想から察するに、すずめは3.11で被災していて、その後に九州の親類に引き取られたのだろう。

しかし、引き取り先の宮崎には完全には馴染まない「異邦人」であり続けたのかもしれない。

すずめが四国行きのフェリーに飛び乗ってもホームシックにならないのは、宮崎が彼女の「ホーム」ではないからなのだろう。

だからすずめが環の元へ戻る強い動機はないし、すずめが草太への協力を優先するのはそんなに不思議なことではなかったのだ。

すずめの最終的な目的地は浜通りを進んでいるあたりで気づいたが、なるほど彼女はどこかへ出掛けたのではなく、自分のホームへ帰って行ったのだな。

戸締まりの旅は、彼女個人にとってそのような意味があったのだと思う。

 

そんで、旅をしたくなった。

すずめのように船、原付、ヒッチハイク、新幹線と移動手段を選ばなければ、日本中のどこまでも行けてしまうのかもしれない。

とはいえ、経済的には可能でもなかなか動機が無ければなかなか旅に赴く気にはならない。

地元の浜松で就職して何年か経つが、今のところ西は名古屋、東は藤枝が一番の遠出だ。

それ以上離れると、戻ってこられないような不安が増してくる。

それがホームの力だと思う。

すずめが日本を軽やかに駆け巡るのは、異邦人ゆえ、ホームの力でもあったのかもしれない。

しかし、それ抜きにしてもすずめはどこまでも行きそうなエネルギーを持っていて、それが彼女を魅力的にしている。

 

そういえば、すずめは幼少期の記憶をどのくらい覚えていたのだろうか?

彼女が眠っている時に夢を見ているので、忘れてはいない。

かといって目覚めた時にひどく取り乱した様子もない。

ただその記憶がある、彼女にとってはそういうものなのだろう。

すずめが常世で過去の自分と出会って向き合った時、なるほど常世というギミックは、ただミミズの棲家として用意されたのではなかったのだと心底驚かされた。

ちょっと出典を探し出せなかったが、NHKの3.11から11年目の特集番組で、大学の研究者が被災した当事者の語りを紹介していたことがある。

いわく、震災から何年目という表現は震災を過去の出来事として見ているが、私にとっての震災は今なお続いていることなのだ、という旨だったと思う。

それを思い出して、過去を単なる過去としてではなく現在や未来と相対的に等価なものとして捉えるという感覚は、時間という概念のない常世のアイデアの元になったのかもしれないと考えた。

 

映画を観終えてからツイッターを検索すると、日本神話を引用した考察がそこそこ見つかった。

すずめの姓が「岩戸」の時点で、そのへんを意識してるのは想像がついた。

そのへんの知識があると、本編の考察がより深まるのかもしれない。

でも、私が思うに本編の中にある謎は本編に登場する要素からすべて考察して楽しめるようになっているはずだと思う。

推理小説で言うところの「ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」みたいなもので、考察の手がかりが本編の外の資料にあるんなら本編はあってもなくても一緒になってしまうからだ。

何より映画を観る意味が無くなってしまう。

というより、自分が映画を観た意味が無くなることの方が不満だ。

それらはすずめの旅の意味を解釈するツールとしては役に立つのかもしれないが、すずめが考える旅の意味そのものを言い当てるものではないだろう。

だから、まあそのへんについて私は触れません。

そもそも詳しくない分野なので。

 

本編は楽しくて、怖かった。

不幸が誰にでも理不尽に訪れる環境で生きている現実を突きつけられ、現実を捉え直すような内容だったからだ。

ちょうど『ちむどんどん』を観た時も似たような感想を持った。

ちむどんどんの比嘉家に降りかかる、あるいは比嘉家が起こすは災難は厄災とでも言うべきものだった。

比嘉家の答えは、何があっても幸せになるんだという意志と信念。

去年連載が終了した『ジョジョリオン』は、「震災」後の杜王町を舞台として岩人間と戦う東方家の姿を通して、厄災を免れない状況や厄災によって受けた傷をどうすれば乗り越えられるのかというテーマを描いていた。

定助の答えは、「乗り越える」(Go beyond)。

すずめにとっては、乗り越えるための答えを未来の自分から受けとっていたことを思い出すことだった。

逆に考えれば、私達は幸福になる運命を見つめて生きることができるということだ。

ややもするとそれは「きっとなんとかなるよ」という無責任な説得に陥ってしまうだろう。

しかし、16歳すずめが4歳すずめに語りかけるシーンは、自分が自分に対して自分の人生を祝福する……祝福することができるんだというシーンでもある。

それって心強くないですか?

今までに聞いた震災に関するあらゆるメッセージの中で、初めて、自分が被災した側になったら受けとっても良いと思えるメッセージでした。

これ、他人からの「がんばれ」じゃ無理があるって新海監督も思ったんだろうなぁ。

すずめが故郷に帰って自分を祝福して、祝福な人生だったこと、これからも祝福な人生であることを祝福する。

これを映像表現でダイレクトに伝えてくれたのが、この映画の何より素晴らしい点だと思います。

 

ということで、おもしろかったです。

新海監督の作品は『天気の子』は観たけど『君の名は。』は観てません。

金曜ロードショーの録画がそのままなんで、可及速やかに観ます。