かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

映画『母性』を見た

映画『母性』のネタバレを含みます。注意。

 

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前情報ナシで湊かなえの小説原作とも知らず見たけど、見終わってから母親と娘の名前が思い出せない。

母親が主人公にもかかわらず。娘も重要人物である。

その人物が母親と娘であるという家族役割はよく覚えている。

それくらい、本人の本名よりも本人が母親であることや本人が娘であることが、この映画では強調されていた。

映画『母性』オフィシャルサイトを見てびっくりした。母親は「ルミ子」と言うらしい。

メルモちゃんみたいな名前してるのに覚えてないんだから、相当に名前が登場しなかったことになる。

ルミ子なる女性のお母さんがとっても優しいんだけど、この母親もルミ子を名前で呼んでいたシーンがあったろうか?

呼んでないわけないと思うけど、この映画では意図的に呼ばないようにしているようだ。

ルミ子はそんなお母さんが大好きで、娘よりも大好きだ。

それは擁護に困るような態度となって現れるようになるし、あるシーンで母親は優しく娘に語りかけたつもりが、娘には母親が脅しをかけてきたように見えてしまう。

では、悪意のない母親が真実だろうか?

 

この映画では、ルミ子が父と知り合って結婚して娘を生んで実母を亡くすまでの「母の真実」、同じ時系列を娘の視点でたどる「娘の真実」、実母が亡くなって娘が高校生に成長してからの生活を描く「母と娘の真実」という構成をとっている。

つまり、同じシーンの出来事を、母と娘がどのように見たのか、捉えたのかを「真実」として描いてくれる。

私の印象として、親子のこじれた関係を描く物話は一方の立場を相対的に分があるとみなし、一方を説得するような展開をとることが多いようで、なんだかすっきりしない。金八先生の第八シーズンが特にそうだったかも。

この映画では、双方がそれぞれの「真実」を持つという前提に立って親子の関係が発展・後退するので、そういう引っかかりが無くてよかった。

『ミステリと言う勿れ』(田村由美)で整くんが刑事に「事実は一つだけど、真実は見る人の数だけいくらでも生まれる」話をしていたけど、まさにあれだろう。

それをやってくれているので、母の思考も娘の思考もパラレルに走るものとして理解できるし、「母と娘の真実」パートのクライマックスで発生する視点の切り替わりで何が起こっているのか、私達は目撃することができるのである。

そして、双方の真実を知ったとて母娘の関係がいかに救いがたい地点まで到達しているのかを思い知るのである。

そして、救いがたい地点まで行ったからこそ、その回復に安堵するのである。

ルミ子が娘の名前を呼ぶシーンになって「あ、そういえばこの母親は娘の名前を呼んでいなかったな」と気がついて、ルミ子が娘の名前を呼ぶことの重大さを理解するのもよい。

 

義母さんが食卓で文句をこぼす演技がとても私の母に似てた。

いや、うちの母はあんなに酷い人格はしてないけど、めんどくさいなとかいやだとか不満を漏らすときは、本当にあの義母さんのような「う」と「ぬ」と「む」と「ん」が混じったような「唸り」を出す。

そんで、ああうちの家族ってまだマシなんだなと田所家を見ていて思った。

うちの両親の良心に沁み入りそうになるも、田所家があんまりすぎてそれどころでなかった。

ネグレクト経験のある人は一人で見ない方がいいと思う。

 

最終的にルミ子は懺悔室で自分の過ちを告白をする。

あれは、ルミ子の母としての真実が真実でないこと、すなわち、ルミ子の母親への愛を基礎とした真実を否定すること、母親を否定すること、母親の娘を辞めること、ルミ子の母親が懸命に諭したように娘の母親となることを意味していたのだと思う。

「娘に向き合うこと」と言えばひとことで済むのだが。

それこそが、娘が居酒屋で考察していた「母性」を身につけることなのだと思う。