災害や感染症流行などの危機時に、真偽不明の情報やデマが急速に拡散され、社会的混乱を引き起こす現象である「情報災害(インフォデミック)」
左派は確実に被災者を攻撃する様々な言説の一端を担っていたけど、スピヴァクの「サバルタン」概念を思い出すと、問題の本筋ではないんだろうなと思う。そのことについて具体的に考えてみる。
スピヴァクはインドの寡婦殉死(サティー)をめぐる「野蛮な風習から女性を救う」とする植民地主義者と「女性は自ら死を選んでいる」と主張するインド人男性知識人の対立言説の中で、当の女性自身の声が消されていることを指摘した。双方女性のために語っているように見えて、実際は女性を「語られる客体」に位置づけていた。重要なのは、特定の政治的立場に固有の問題なのではなく「弱者のために語る」行為そのものに内在する暴力だということ。
能登の被災者もこの構造の中にいる。「可哀想な被災者」を演じなければ「能登ウヨ」とレッテルが貼られ、政治的主張や利益のために「消費」「利用」される。
情報災害の背景には、このサバルタン化があるのだと思う。支援者が「弱者とはこうあるべき」というイメージを持ち込み、それに合わない声を「本当の弱者の声ではない」と退けるとき、サバルタン的構造が生まれる。今回は左派がその暴力を行使してしまったけれども、スピヴァクにしたがえば特定の政治的立場に固有ではない、普遍的な問題といえる。
今後SNS見る時のメモ:
- その投稿は「被災者はこう感じているはずだ」というイメージを前提にしていないか?
- 被災者自身の声が自分の期待と異なっていたとき、その声を退けようとしていないか?
- 怒りや義憤で拡散しようとしているとき、それは誰のための怒りか?
など自分を観察すること(なにこのめんどくさいメディア)
参考文献:ガヤトリ・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』みすず書房、1998年
そういえば、記事が「リテラシー」を問題にしていないのは注目に値すると思う。情報災害に対する「(SNSの)運営側のリテラシー向上」が主張された程度で、結論では「想像力」「理性」に帰着させている。
リテラシーは文字の読み書きのように習得でき、能力を高低で測れ、「できた」という完了がある能力を指す。それと区別しているように読める「画面の向こうに人がいることを想像できる」能力は、後から身につけるものではなくそもそも人が等しく備えていて、高低ではなく発揮するかしないかの問題で、その相手がいる限り完了もない。つまり、想像力が持ち出されるとき、「できる/できない」ではなく「する/しない」で問われる主体、能力を高めて正解を出す主体ではなく、相手に向き合い続ける主体が期待されている。
想像力の問題だ、といえばどこか精神論めいていて頼りない響きがするけど、実際のところ私にできる倫理的実践とはその想像力を発揮し続けることぐらいだと思う。上のメモは私のリテラシーを高めるヒントではなく、画面の向こうの相手の前に立ち続けようとする決意を表している。「情報災害」を前にしたとき、このような態度や姿勢が問われるのだと思う。