かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「弱者」とはだれか@小浜逸郎 内容と感想書いた。

内容

 弱者をここでは、差別・被差別の関係からカテゴライズされる人々の事を指す。

 社会的弱者について話すときの問題として、話題を出すのがはばかられること、話題を出したとして全般的な解決に向かうことは殆ど無いこと、話題にしなくても自分にはほとんど影響が無いことの三つがある。

 筆者は弱者について語る時に、概念と実態が殆ど一致しなくなってきていると指摘し、差別の当事者・非当事者の両者が弱者について冷静に議論するために必要な姿勢を、それぞれの立場について説明している。

 ただし、その前に話に参加する人々の全員が考えておかなければならない前提が説かれている。被差別者は常に差別されているわけではなく、たとえば健常者と障害者が特殊な状況下(たとえば公共交通機関)におかれた時に初めて発生する「関係」によって差別という意識が生まれるということ。差別を意識しすぎるために過剰な配慮や規制をしたつもりが、かえって差別の存在を肯定してしまっていること(放送禁止用語やクレームの類)。差別に関する議論は、世の中で正しいとされている「観念」を根底になされている可能性が大きいこと。この本を読むにあたってのミソはここだと思う。

 そして、弱者という概念の存在については、個人化の進んだ近代社会、戦後平等・個性が目指された日本における必然であるとされ、私たちはいったんそれを受け止めた上で話し合いをしなければならない、としている。

 

救いようのない新しい弱者

 小浜は社会問題としての弱者についてだけでなく、新しい「弱者」についても指摘している。それは主に身体的特徴(ハゲ・チビ・デブ)についての蔑視であり、関係性から発生する弱者の差別とは違って個人から出発する差別である。

 たとえば、部落出身で内定を取り消された可能性があれば社会的問題として訴える事が可能だろう。しかし、能力がとても優れていてかつ容姿が劣悪でありその状態で内定を取り消された場合には、言ってはなんだが「救いようがない」。

 以上から分かるように、新しい弱者の差別(の可能性の存在)の厄介な点は、それが社会的人格が認めた上で、別の個性が問題になっていることである。

(ここまでが内容)

 

感想

 これが書かれたの1999年でボクは小学校上がりたて。あの頃はインターネッツがまさに広がっていった時代で新鮮さを感じていた一方で、世間の古臭さ、時代の湿っぽさも感じていました。それはまさに当時の「観念」を肌で感じていたのだと思います。

 観念といえば4chのNHKがその象徴という印象でした。今みたいに染髪した人なんて出演しないし、放送内容もかたっくるしいのばっかりだった記憶があって、テレビをつける時は必ず4chは飛ばしていました。消去法で残ったときはしぶしぶ観ていました(でも今は大好きですよ)。

 この本についての感想ですけど、「新しい弱者」は別に新しくないよね。むしろ小学生がみんなやるような差別だし、どういう意図をもって「新しい」と見出しをつけたのか気になった。たぶん、社会的弱者についての内容がメインだから?たぶん読み込みが足りないかもね。

 それで、新しい弱者の問題はわりと深刻よね。平たく言っちゃえば、好きな人や良い関係でありたい人との関係づくりに関わるんだから。自分がデブで相手がデブ嫌いって言ったらそれ以上何も言えないし、言っちゃう相手も相手だけど。いかに人間が身体、ハード的な部分と密接になっていて、アイデンティティとして自覚しているかが露出するもんね。

 tnk先生のミラン・クンデラ研究も、差別研究ではないにしろこれに近い気がする。クンデラの小説って身体の構造や生理的現象の描写が詳しくて、自分の身体の変化に悩む女性の姿がよく浮かび上がってくるのよねー(論文少し読んで内容知ってるだけですごめんなさい)。

 でもさ、この問題って身体的特徴を会話中に意識しないようにすることが一番の解決方法だと思う。身体的特徴を持たない人間なんて永遠に現れないから、もはやそこに居合わせた人々の上手な配慮、それこそ観念に縛られないような関係性の上手な醸成があれば、半永久的に解決するようなもんだよね。たとえば太っている人と一緒に話してて、変に気を遣うような言い方しないとかね(人によっちゃ限界あるけど)。

 少し話が飛ぶんだけど、この本読んでると思いつく具体例がことごとくTwitterでした。この手の話は話題になりやすいし、ちょっとした発言から炎上してTogetterでまとめられるってことも多いですから。それで思い当たる例が多かったし、Twitterって社会の縮図みたいだなーとも。

 ちなみに全部読むのに3日かかった。ふえぇ。オチはありません!