かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

「コミュ障」の本質とは、「自信」である。

「コミュ障」の本質とは、「自信」である。

 「ミュ障」という言葉を随分と聞くようになった。「コミュニケーション障害」の略称であり、心理的な要因で会話が上手にできない人を指して使われている。周囲の友人・知人の中にも、「自分はコミュ障だから」と申し訳無さそうに告白する人がいる。それだけ「コミュニケーションできる人」がさも標準的で神聖視される存在のようになっているようだ。

 かし、不思議なことに「この人はとても会話が上手である」だとか「この人は他人との交流が頻繁である」などと周囲の人々から思われている人が、「コミュ障」を自称する場面がある。それこそ、現実的問題として「コミュ障」である人からすれば、「貴方がコミュ障を自称するのはおかしい」と感じるだろう。

 れは、「コミュ障」という言葉の使い方が両者で異なるのであって、単なる会話能力不全を「コミュ障」と定義する事が間違いだと言える。このような誤解の理由の一つに、「障害」という言葉の使用が挙げられる。「障害」という言葉は"can or cannot"のニュアンスを含むため、「コミュ障」という語を使われたとき、私たちの注意は「話題の提供」や「相槌を打つ」など会話の成立部品に向けられる。コミュニケーションの上手な人はこれが達成されているために、本物の「コミュ障」の人は違和感を感じるのである。

 まり、コミュニケーションの上手な人々の注意は「会話の技術」に向けられているのでなければ、会話が成功したかどうかですらもない(かも)。会話を成立させられるかという「不安」なのである。それは、ほとんどのコミュニケーションに悩む人々にとって共有される感情だろう。会話を成立させる「自信」や「勇気」の無い人こそ、「コミュ障」の定義として相応しいと言えよう。

「コミュ障」は口実として便利な曖昧語

 「ミュ障」という言葉が現在これだけ広まった理由として、ひとつは口実として便利で0あること、もうひとつは「コミュ障」という言葉が生む語弊が日本人に馴染みやすかったことが挙げられる。前者はもはや言葉として自明的な性質である。短い略語は言いやすいし、冗長に解説する必要を無くす。後者は少し複雑なので無視してくれてもいい。先述したように、「コミュ障」という言葉は人によって解釈と使い方が異なり、明確な定義がされずに曖昧なままに使用される。この「曖昧」さがミソであると推測する。

 ても長い間に渡って侵入者の少ない状態が続いた島国で育った日本人は、なるべく人間関係に波風を立てない性格を持っている。日本人同士で行われるコミュニケーションはストレートな意思伝達よりも、間合いを大切にした間接的なコミュニケーションが好まれる。そのようなコミュニケーションを助ける素材として曖昧さを保つ日本語やそれを使用する私たちの言語的感覚は今でも受け継がれている。「コミュ障」もまた、曖昧で便利な言葉として日本人に受け入れられたのではないだろうか。

「コミュ障」を自称する人は、実は「コミュ障」ではないかもしれない(気休め)

 とめると、「コミュ障」は会話ができない人ではなく会話する自信が無い人のことで、つまり「コミュ障」を自称する人たちも実はけっこうまともに会話できたりする可能性がある。とはいえ、「『コミュ障』を自称するな!」という理由にはならないので、ボクは特別な嫌悪感を抱いているということはない。ただわけもなく「コミュ障」「コミュ障」と口癖のように言っている人については、ちょっと落ち着いて自分を見つめなおす作業を入れてから発声してほしいなぁ、と思うだけ。

蛇足

 「リア充」「非リア」という言葉、「コミュ障」に近いものを感じますが、この記事に代えて話題を保留とします。