かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

社会的マイノリティをめぐる「素朴な感想」のマニピュレーションとその危険性

三木那由多『会話を哲学する』(光文社新書、2022)

まずコミュニケーションとマニピュレーションの関係を先に紹介。

話し手が発言をおこない、それによって聞き手とのあいだで共有の約束事が形成されるとき、その発言はコミュニケーションをおこなっているものとなります。コミュニケーションは、話し手と聞き手のありだでの約束事に関わる。

(省略)ですが話し手は必ずしもその発言でコミュニケーションだけをおこなっているわけではありません。

(省略)発言によって聞き手に影響を及ぼそうとしているとき、話し手はマニピュレーションを試みていると言えます。
(pp.210-211)

そして筆者は漫画・ゲームのセリフを引用してマニピュレーションによって聞き手に影響を与えるさまざまな例を説明していきます。以下はその一部です。

  • 本人の口からは職業倫理上言えないが、それに背くような行動を遠回しに相手に促している例(『ワンピース』『パタリロ!』)
  • 立場上、言質を取られないように本人の口から言ったことにならないレベルで、遠回しに情報を伝えている例(『鋼の錬金術師』)
  • 低年齢の子どもを対象としている特性上、本来はコミュニケーションによって遠回しに伝えられるマニピュレーションをもあえてコミュニケーションとしてキャラクターに口にさせ、本人の感情表現にもなっている例(『ポケモン不思議のダンジョン救助隊DX』)

その後、差別を煽る悪質なマニピュレーションについて触れ、282ページ〜で例を挙げています。

 例えば、性的マイノリティの人権に関心があるひとなら、どこかでこんな発言を耳にしたことがあるのではないでしょうか「ゲイを差別するわけではないけれど、でもみんながみんなゲイになったらどうなると思う?」こういう発言をするひとは、「それは差別だ」と批判されると得てして「いや、ただ疑問に思ったことを言っただけだ」とか「疑問を持つ権利さえないのか」と言い返しますが、確かにコミュニケーションレベルではそうなのです。(p.282)

ここで筆者のいう「コミュニケーション」とは、発言によって話し手と聞き手との間の約束事を共有することです。

この例で言えば、聞き手は「話し手がみんながゲイになったらどうなるのかについて疑問に思っている」という約束事が作られたと理解します。そしてそれはその通りです。

しかし、筆者はこうも述べます。

でも、マニピュレーションのレベルではどうでしょうか? 「みんながみんなゲイになったらどうなると思う?」と問いかけられた聞き手がそれに答えようとしたら、実際にみんながみんなゲイになった場合というのを想像し、それをもとに可能な答えを考える必要があります。話し手がそれによって引き出そうとしているのは、例えば「みんながみんなゲイになったら新しい子どもが生まれにくくなって困る」という答えでしょう。もちろん、自分では言わないのですが。

実はこれより前に、筆者はシェイクスピア『オセロー』を引用して、あえて疑問を発することで聞き手が思い浮かびもしなかったことを意識に登らせ、それについて疑いをもたせるマニピュレーションの例を挙げています。

実際に聞き手が疑問を持つかどうかは分かりませんが、聞き手に疑問を与えるマニピュレーションを話し手が試みていることは確かです。

さらに筆者は続けます。

このマニピュレーションの仕掛けは、「みんながみんなゲイになったら」というおよそありえない仮定をするっと導入しているところにあります。これはあくまで仮定なので、話し手はそれをはっきりと自分の考えとしてコミュニケーションのレベルに持ち込んでいるわけではありません。でも、話し手の質問に答えようとすると、そのありえない仮定が実現した状況を考えざるをえない。

(pp.282-283)

通常、「みんながみんなゲイになったら新しい子どもが生まれにくくなって困る」という発言を直接行えば、それはありえない仮定をもとにしたコミュニケーションのレベルの発言であり、言説的責任を問うことができます。

すると、ありえない仮定をもとにした発言によって差別を煽るのも明らかに問題のように映るかもしれません。しかし、マニピュレーションはコミュニケーションのレベルでの現象ではないので、話し手は聞き手の受け取り方の問題であるとして白を切ってしまえる問題点があります。

そこで、筆者はマニピュレーションの責任の問い方について次のように述べます。

(省略)要するにマニピュレーションの責任を問う場合には、「自分の言ったことは言ったと認めよ」というコミュニケーションのレベルでの責任を問うのではなく、「それによってどのような結果がもたらされるのか」「そのような結果をもたらすということを予見してそうした発言をしているのか」といった、より一般的な行為の善悪の次元で責任を問うべきなのではないでしょうか。

言説的責任と倫理的責任をしっかり区別することが重要です。

(p.284)

三木は、自身が倫理学の専門家ではないが、少なくともコミュニケーション論の見地からは発言の内容とそれによって作られる約束事の内容についてではなく、その発言による結果の善し悪しから悪質さが問われるべきと主張します。

「素朴な感想」のマニピュレーションについて

三木の論じるマニピュレーションは、特定の帰結を生む発言の責任を問うことを可能にします。

例えば性的マイノリティについて誤解や偏見を持っていて、それが誤解や偏見と知っていてか知らないでかに関わらず発言した場合は、すでに誤解や偏見を振りまくこと自体がマニピュレーションとして悪質だと判断することができます。

仮にそこで「誤解や偏見」とされている内容が、本人にとっては「自然で素朴な感想に基づいた見解」であったとしてもです。

三木が引用している映画『ブラック・クランズマン』では、白人至上主義団体が見ていると思われる映像で、ナレーターが次のように語ります。

(省略)ブラウン判決。ユダヤ人に――操られた最高裁が下したこの判決により、白人の子どもたちは――劣等人種との学習を強いられています。我々は棺に……。黒い棺に押し込まれ――米国は雑種国に堕ちんとしている。

(省略)レイプ魔、人殺し。清く純血な――白人女性の体を求める貪欲な獣だ! そして連中の陰で糸を引くのは――寄生虫ユダヤ人です。連中は北部の黒い獣を使って……、黒い扇動者か? また間違えた! 連中は北部の黒い獣の扇動者を使って神と聖書が認めた白人種による――世界統治の転覆を謀っています。

(p.279)

私にとっては信じがたいことですが、これが自然で素朴な感覚として受け取られていた社会と人々が米国に歴史的に存在していたことは確かです。

それよりも私が指摘したいのは2つです。

この語りには全体として、黒人を恐怖の対象とみなすことが自然で素朴な感覚であるという認識が大きく横たわっているのではないか、というのが1つ。

その認識を構成する語りにはそれを正しく裏付ける証拠がひとつもない陰謀論的な語りである、というのがもう1つ。

もっと指摘するならば、自然で素朴な感想は誤解や偏見を何も傍証しないにもかかわらず、その誤解や偏見が誤解や偏見でないことについての説得力の供給装置であるかのように振る舞うし、「個人の感想を非難していはいけない」というメタ的な約束事が共有されている場合には、さらに訂正を難しくするでしょう。

もちろん、「個人の感想を非難していはいけない」という約束事は「個人の感想を何かの傍証にすることへの非難」と「個人の感想への非難」のすり替えとセットで発生するもので、その約束事と訂正は両立可能です。

このように見ていると、「素朴な感想」の動員はそれ自体の取り扱いも含めて非常に厄介であることがわかります。

性的マイノリティをはじめとする社会的マイノリティをめぐる問題について語り合う際には、こうした悪質なマニピュレーションを伴った差別的な言説や陰謀論的な言説と容易に結びついてしまう危険性が「素朴な感想」に備わっていることに注意を払うべきです。

三木のマニピュレーションの議論を踏まえて、このことを私は強調したいと思います。