論文用に書いていた文章が使えなくなったので、供養します。
インターネット利用が身近である今、我々は多様な性のあり方についての知識にアクセスしやすい環境となった。セクシュアルマイノリティの当事者団体が発信する情報はもちろん、SNSでは当事者が自身の体験を語り、具体的な物語を共有する場となっている。それでも、性についての体系的知識と得ようとするならば、「性の多様性」や「多様な性」について専門家や当事者によって書かれた専門書が役立てられるだろう。それらは、読者のセクシュアリティについての見識を深めるとことを基本的に目的としている。一方で、我々は「性」という言葉が随分と広範なものを指すことを知っている。「多様な性」についての専門書は、その混沌とした性の知識に一定の秩序を与え、整理を行うもののように想像されるだろう。
ところが、現在出版されている「多様な性」の専門書は、多くの場合、セクシュアルマイノリティを主要なトピックとしている。雑誌言説研究者の石田仁(2006)はこの点に着目して、「現代の性のテキストで語られる『多様な性』を、思考の前提とするのではなく、分析されるべき社会学的思考の対象」(石田2006: 162)と捉えた研究を行った。本記事では、このような「多様な性」への視点を石田と共有しつつ、石田の分析後に登場した「LGBT」「SOGI」はどのような「多様な性」の方向性を打ち出そうとしているのかについて検討を行っていく。
本論
石田(2006: 155-157)によれば、現代の「多様な性」のテキストにおけるセクシュアリティの解釈枠組みは多くの場合「『生物学的性別・性自認・性的指向』の3つの要素の組み合わせ」であり、それぞれの値が分かれば誰でもその人のセクシュアリティが明らかになるという「〈決定論的〉側面」を持ち、それを表現したのが図2である。第1の相は性自認と性的指向の組み合わせで表現される「多様性」であり、ともに女性であるのがレズビアン、男性であるのがゲイ、それぞれ異なるのが異性愛女性、異性愛男性である。第2の相は性自認と生物学的性別の組み合わせで表現される「多様性」であり、両者が一致する女性は「純女(じゅんめ)(シスジェンダー女性)」、男性は「純男(すみお)(シスジェンダー男性)」である*1。一方、生物学的性別が男性で女性の性自認を持つ場合は「MtF」、生物学的性別が女性で男性の性自認を持つ場合は「FtM」である *2。最後には、この性自認を軸に第1の相と第2の相を張り合わせて「多様な性」が表現される。例えば、「性的指向が女であるのはどのようなセクシュアリティか」という問いには、「純男異性愛」「FtM異性愛男性」「MtFレズビアン」「純女レズビアン」の4パターンがあると答えられる。
図1 石田仁による「現代の性の解釈枠組み」の図
この枠組みでは、それぞれの要素が「女/男」のいずれかの値のみをとることからわかるように、二値的に捉えられないインターセックスやXジェンダーといったセクシュアリティはこの枠組みに定位できない。しかし、「グラデーション」(橋本2003: 267)や「スペクトラム」(米沢2003: 35)の視点を導入したところで「根底からジェンダーを媒介として構造化されている」(加藤1998: 35)ことには変わりがない。この石田の指摘は、インターセックスやXジェンダーそのものが一種のジェンダーであるという指摘ではない。例えば、「無性Xジェンダー」とは「男女、あるいは中性・両性など、特定の性自認を持っていない性自認」(Label X 2016: 41)であるが、加藤の言葉はこうしたセクシュアリティが結局は「女/男」のジェンダーの観念的実在を前提として理解されてしまう事態について言おうとしているのであろう。石田はこのような構造を持つ現代の「多様な性」におけるセクシュアリティについて、加藤の言葉を借りて「根底からジェンダーを媒介として構造化されている」(加藤1998: 35)と指摘する。逆に言うと、「SM」のようにジェンダーで捉えられないセクシュアリティは「多様な性」から除外される。このように、石田と加藤の観点は、現代社会におけるセクシュアリティ観、具体的にはセクシュアリティがジェンダー、つまり「女」や「男」が関係してくる話であるという認識を捉えるものなのである。
◇「LGBT」
こうした石田の分析以降に新たに登場した「多様な性」を表す言葉として、「LGBT」および「SOGI」を取り上げる必要があるだろう。LGBTとは、「『Lesbianレズビアン』『Gayゲイ』『Bisexualバイセクシュアル』『Transgenderトランスジェンダー』のそれぞれの頭文字をまとめたもので、性指向と性自認に関する性的少数者の総称である」(針間2016: 8)。LGBTは当初からLGBTだったのではなく、その語形成の過程は諸説ある。
…当初は、未曾有の「エイズ禍」を経験したゲイ・コミュニティが牽引する形でGLBという概念が生み出され、これを自称することで共有される問題を告発し、連帯を示した。その後、より不可視化された存在である女性が先頭になるように順番を入れ替え、LGBを名乗るようになった。Tが追加されたのは(単体では八〇年代から使用されていたが)一番後で、九〇年代前後のことである。(東2016: 67)
…1980年代にセクシュアル・マイノリティの権利を求める活動家がゲイとレズビアンをGLと呼んだのが起源のようです。そこにBとTが加わって4つになるのは90年代に入ってから。しかしその頃はまだ並びが固定していなく、GLBTと書くこともありました。それがLGBTとなったのは、活動が男性優位だという批判に対して、名前だけでもLを頭に持ってきたのだという説があります。
その後、2000年代に入ると、LGBTは次第にパブリックな用語になっていきます。公的な文書で使われた最初は、2006年の「レスビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人権についてのモントリオール宣言」だと言われています。(ハフポスト日本版「LGBTブームの課題とは? 三橋順子さんが指摘する光と影「人権より先に経済的側面が注目された」,2019年12月2日)
ここで注意を促したいのは、この時点の「LGBT」はアイデンティティ・カテゴリーの単なる集合であった可能性である。例えば、ヴァネッサ・ベアード(Baird Vanessa)『性的マイノリティの基礎知識』(2005)は原題に「性の多様性」を意味する「Sexual Diversity」を含むものの、LGBTを「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルおよびトランスジェンダー。これは多くの性的マイノリティの組織が、自分自身について表現している言い方である」と解説し、セクシュアル・マイノリティの総称であるとは直接書いていない(Baird 2001=2005: 8)。
こうしたLGBTの語が国内において普及したことがセクシュアル・マイノリティの権利改善に寄与してきたことは間違いないだろう。2015年には「東京都渋谷区と世田谷区で、同性カップルのパートナーシップを認める制度が開始され」、「国会でも、LGBTの権利擁護に向けての法案が議論されるようになった」。また、「企業や学校でも、LGBT当事者が支援や配慮を受けられるような取り組みが始められている」(針間2016)。セクシュアル・マイノリティの生きやすい社会づくりは政治と行政、ひいては社会が取り組む課題という認識が定着しつつある。
他方で、吉本圭佑はLGBTという呼称の問題点として、①LGBT以外のセクシュアリティが漏れること、②「LGBT」という集団が存在するという誤解を与えること、③自分達とは直接関係ないに違いないという「他人事感」の助長を挙げている(吉本2018: 180-1)。
①の問題点は2000年代の欧米で既に指摘されており、他のカテゴリーの頭文字を含める対策がとられている。例えば、「Intersex(インターセックス)」を含めた「LGBTI」(田中2006: II, 山下2016: 15, 加藤2017: 17)や、そこに「どんなカテゴリーにも当てはまらない人々を表す」「Queer(クィア)」を含めた「LGBTIQ」(加藤 同上)、そこへさらに「アセクシュアル/アロマンティック(Asexual/Aromantic, 無性愛者)」を含めた「LGBTQIA」(東2016: 67, Label X2016: 5)が挙げられる。詳しくは紹介しないが、佐々木(2017: 5)によると海外では「LGBTTIQQ2SA」や「LGBTQQIAAP」といった表現も見られるという。近年では「LGBTs」や「LGBT+」、「LGBTQ+」といった表記がなされ、「複数形のsや + の部分にLGBT以外のセクシュアルマイノリティを含めようという考え方だが、sや + に該当する人々からしてみると、自分たちがマイノリティの中のマイノリティとして扱われていると感じるかもしれない」(吉本2018: 180)。これらの一連の現象からは、LGBTは具体的なカテゴリーの羅列である以上、潜在的に排除されるカテゴリーが存在し、また、カテゴリー間に序列を生むという問題点が浮かび上がってくる。
②の問題点は、当事者のセクシュアリティの尊重を困難にするという点で深刻である。例えば、いわゆる「一橋大学アウティング事件」についてNHKが報じたニュースでは、亡くなったゲイの男子学生について「いわゆる性的マイノリティー『LGBT』」であるという説明がなされ、「ゲイ」あるいは「男性同性愛(者)」といった説明はなされなかった(NHK首都圏NEWS WEB,2016年8月5日)。少なくとも本文中でゲイであることを説明した上で「LGBT」を「性的マイノリティー」の代替表現として用いていたのであればともかく、LGBTという説明に終始するのではセクシュアリティの説明にならない。
また、カテゴリーの集合として見た場合にも、一人の人間がL・G・B・Tを全て兼ねることはあり得ない。セクシュアリティが「人間一人ひとりの人格に不可欠な要素」(世界性科学学会「性の権利宣言」,1999年)であることを踏まえれば、この男子学生を「LGBT男性」と説明するのは、「女子学生」と説明することと同等に誤っているのである。それとも、セクシュアリティを性別よりも格下の属性とみなし、誤報はさしたる問題につながらないとする有力な根拠があるのだろうか。少なくとも、セクシュアル・マイノリティ当事者の立場からは、LGBTという語は自らのセクシュアリティを正確に説明するには不適切な表現と言わざるを得ないだろう。こうした報道における「LGBT」の不適切な使用はNHKの報道を皮切りに2016年から2017年にかけて見られるようになった(Letibee Life「LGBT男性/女性って?セクシュアリティを”LGBT”で総称する欺瞞」,2017年2月22日)。
③の問題点については、石田が類似的な考察を行っている。
たしかに性同一性「障害者」といった呼称にすれば、人びとの心にある「私たちとは異質だが差別してはいけない人びと」のリストに、書き込まれやすいのかもしれない。この点で、偏見の短期的解消に寄与するかもしれない。しかしそれは、「私たちとは隔絶しているからこそ寛容に接することができる」という考えを、強めることにならないか。「性同一性障害者」の成立が、反作用的に「性同一性健常者」の暗示的な成立をもたらすことは、言うまでもないことである。「健常者」たちにとりつけた支持は、果たして、みずからの問題として性的多様性を「健常者」自身が引き受けることへとつながるのか。
(石田2006: 165、傍点は原文通り)
石田の「性同一性障害者」と「性同一性健常者」の対置は、セクシュアル・マイノリティとしての「LGBT」とセクシュアル・マジョリティとしての「LGBTでない人びと」の両者にどこか相似的である。一般論として、誰でも風邪を一度はひくし、インフルエンザに感染する可能性があるように、誰もが疾患にかかる可能性があり、それをもって「風邪ひき者」だとか、「インフルエンザマン」などと人格と結び付けられることはない。それが了解されているからこそ「風邪」は非人称的な名称なのかもしれない。しかし、日本における「性同一性障害者性別取扱特例法」成立の戦略は、性同一性障害という疾患を人称的なもの(=性同一性障害者)とみなす「主体化」の戦略であった(石田 同上)。こうした背景で、疾患とは誰もがなりうる「自分事」という前提をマジョリティが引き受ける契機はいかにもたらされるか、という石田の問題提起は吉本の問題意識に通底していると言えるだろう。
米国社会学者のハロルド・ガーフィンケル(Garfinkel Harold)によれば、現代社会において「『自然に』『本来的に』『まず第一に』『最初から』『ずっと』『永遠に』男あるいは女」(Garfinkel 1967=1987: 217)を「あたりまえ」と考えるのが、自らを「正常」と考える人々である。結局のところ、LGBTという語は「あたりまえ」でないあり方に対して、マジョリティにとっての便利な教科書的呼び名を与えたに過ぎなかったのではないだろうか。今後もLGBTという語を積極的に支持する理由は特に見当たらないように思われる。
問題点①で検討したように、LGBTはカテゴリーの列挙である以上は、セクシュアリティを正確に把握するための枠組みとして機能していない。以上を踏まえて石田の枠組みと並べると、随分と奇妙な代物に映るように思われる。
◇「SOGI」
こうした問題点を背景として、近年ではLGBTよりも包括的な表現として、性的指向と性自認(Sexual Orientation and Gender Identity)の略語である「SOGI(ソジ)」が日本国内に登場するようになった。国内での使用例としては、2016年に公明党が「性的指向と性自認(SOGI)に関するプロジェクトチーム」設置を発表した(『毎日新聞』2016年2月4日朝刊)。また、衆議院内の集会「レインボー国会」では、性的指向や性自認を理由とした差別を「SOGI(ソジ)ハラ」と呼び、これを規制する法整備について議論が交わされてきた(『ハフポスト日本版』2018年12月13日)。
LGBTと同様に注意を促すと、英語圏においてSOGI(ソジ)は一般用語ではないようである(針間2018)。具体的な例として、性的指向と性自認について国際人権法がどのように適用可能かについての原則であるジョグジャカルタ原則(The Yogyakarta Principles)を取り上げる。ジョグジャカルタ原則の公式ウェブサイト(https://yogyakartaprinciples.org/)には「SOGI」が一度登場するが、本文PDFには一切登場しない。しかも、Wayback Machine(http://web.archive.org/)のキャプチャを確認すると、公式サイトに「SOGI」が登場したのは「原則」が作成されてから13年後の2019年4月3日のことである。一方で、2017年に性表現と身体的特徴について内容が追加された際のプレスリリースには、「sexual orientation, gender identity, gender expression and sex characteristics (SOGIESC)」という記述が「SOGI」よりも先に登場する。こちらも、追加版の本文PDFには一切登場しない。このように、ジョグジャカルタ原則は基本的に略語としての「SOGI(ESC)」を普及させる意図は無いようである。
上述したLGBTの問題点に対応させながらSOGIの特徴を挙げると、①多様な性的指向と性自認のあり方を内包するため、それぞれについてカテゴリー化されないようなあり方までも包摂する表現である。また、②性的指向と性自認という枠組みによって一人ひとりのセクシュアリティを捉える道具立て、認識枠組みを与える。また、③「セクシュアルマイノリティにせよ異性愛者にせよ、誰もが独自のSOGIを生きている」のであり、「すべての人々が関係している問題」(吉本 同上: 189)という意識をもたらす。佐々木掌子(2017: 6)も同様に、SOGIは「性的マイノリティと性的マジョリティを対比させることへの疑義から、すべての人が多様な性の一員であることを示すために用いられる」と述べている。そして、性的指向と性自認が別の問題であることを強調できる表記であり、具体的なカテゴリーを並べないので価値中立的である。
また、Label X編著『Xジェンダーって何?』(2016)ではSOGIの使用背景が次のように触れられている。
…これまで日本ではLGBTやGIDなどの「性指向と性自認に対して少数派の人々」に対して、その代名詞として「セクシュアル・マイノリティ」という言葉を用いてきましたが、近年、諸外国でセクシュアル・マイノリティという言葉に、小児性愛(ペドフィリア)や、屍体愛好(ネクロフィリア)、あるいはその他の性的倒錯など、一部の特殊な性癖や性的指向をもつ人々をも含まれるのではないかというLGBTやGIDの当事者たちの懸念により、世界的に使用を控える傾向が強まっているようです。
そのため、本書ではこの点につきまして、その流れを尊重し、LGBTやGID、Xジェンダーを総称する表現については、近年、セクシュアル・マイノリティに代わる名称として徐々に当事者の間で提唱され始めてきたSOGI(ソギ)(Sexual Orientation and Gender Identity)を使用させていただくことにしました。(Label X 2016: 7-8)
ここでは、多様なセクシュアリティをどこまで「セクシュアル・マイノリティ」に含めるのかという定義論争を巧みに回避しながら、「性の多様性」から「性指向と性自認の多様性」へと焦点をスライドする戦略として、SOGIが選択されているのである。SOGIは一種のアジェンダ設定として、LGBTよりも優秀に機能すると言えるであろう。ただし、SOGIはトランスジェンダーやインターセックスの説明に使えない、使いにくい場合があるため、性表現・身体的特徴の次元を含めた「SOGIESC」の採用が望ましいとする意見もあるだろう。
このように、性的指向と性自認を問題とするSOGIは、純粋な意味での「ジェンダー化されたセクシュアリティ」(gendered sexuality)と言えるものであり、石田の「現代の性の解釈枠組み」の延長線上に位置づけられよう。
ここまで、「LGBT」「SOGI」について検討を行ってきた。石田が分析したようなセクシュアリティ観は「SOGI」に引き継がれていると言えるであろう。ただし、SOGIがいかなる限定的な文脈上で用いられているかについては注意が必要であろう。
参考文献
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