ツイッターのアクティビティ欄ごしに流れてきたツイートを見て、「女装SNSコンテスト」というものがあることを知った。
女装SNSコンテストに意気揚々と参加した女ホルバカ食い自称MtFさん達が順位アホほど低かったり汚物貼るなってぶっ叩かれたりされて
— 文希 (@ks_aya) October 19, 2019
「やっぱり女として生きる人間は女装には理解されない」とか「元から女装じゃなくて女だから」とか色んな真っ当そうな理由付けてツイ消ししてるの凄く面白くて好き
なんか地獄めいとるな?と思いながら検索すると、「第1回!!綺麗&可愛い女装コンテスト【公式】」(https://twitter.com/JOYSTE0901)という名前の運営アカウントを見つけた。これが正式なコンテスト名でいいらしい。これは自己顕示欲を発散する機会になるんじゃないかいう考えが一瞬頭をよぎったものの、これは自分に関係ないからいいや、と思った。なぜなら、自分は「女装」しているとは思っていないからだ。
自分にとっての「女装」とは、自分を男性と認識している人が、一時的に女性の姿を装うことだ。「女装男子」という言い方はされることはあっても、「女装女子」という言い方がされることはない。「女装」と言う時は、少なくともその主体として男性が念頭に置かれているはずである。ある人を指して「女装している」と表現するとき、それは外見・容姿について触れているようでいて、その人の性別が男性であることにまで言及していることになることに注意する必要がある。
したがって、男性の肉体を持つ人がメイクやファッションによって女性的な外見・容姿を獲得しているのだとしても、本人が男性にアイデンティティを感じられないか、男性以外にアイデンティティを感じているのであれば、その人を「女装」と指すのはミスジェンダリング(本人の自認とは異なる性別として扱うこと)となってしまう。また、そのような人が「女装している」と自称することも、自分に対するミスジェンダリングになるのである。
しかし、この認識は少し厳密ではないかもしれない。「女装男子」が言わんとする「男」とは、あくまで肉体の性別のことなのかもしれない。「どう見ても女の子にしか見えない男の子」を指す「男の娘」についても、似たところがある。つまり、言及しているのは肉体の性別であって社会的な性別ではないということであって、要はちん◯んがついているかどうかを問題にしている可能性も考えられるのである。
実際、二次元キャラクターを指して「かわいいけど、(残念ながら)ちん◯んがついている」という感想がつけられることが多い。作品の受け手にとって女性キャラクターが相手ならば受け手のヘテロセクシュアル(異性愛)な欲望が満たせるが、実は男性の肉体を持っているので欲望は満たせない(あるいはホモセクシュアルに対する禁忌、という同性愛嫌悪的な見方によって回避する)という男性目線の文脈で語られることが多いと思う*1。
仮に肉体の性別が男であることに言及しているのだとエクスキューズを入れさえすれば、それでいいのだろうか。極端で意地悪かもしれないが、例えば事故などで右腕を失った友人に「右腕が無いね」と話しかけることは日常会話として成立するだろうか。一目瞭然なことをあえて言葉にするというのは、たんに事実を述べる以上になんらかの意図しないメッセージが入り込む隙ができてしまうのではないだろうか。そしてそれは本人にとって一番居心地の悪いものではないだろうか。少なくともそれが事実であることは本人が一番よく知っているし、「わかってるんだからいちいち言ってくれるなよ」という事柄でもある。たとえ事実であるのだとしても、それを突きつけることは倫理的に問題ないと言えるのだろうか。
なんか長々と書いてしまったが、実在する人物に対して、外見と肉体の性別の情報だけで「女装」「男の娘」という言葉を安易に使うと本人の意に反するケースがあるので注意しよう、ということが言いたかった。
さて、そんな「女装」という言葉を自分が昔使っていた時期がある。なぜか。女性らしい格好をする大義名分を必要としていたからだ。今でこそ平気だけど、当時はただそうした格好をするとおかしな目で見られるかもしれないと思っていた。普段着として「女装」登校ができたのは大学院への進学以降のことだった。だから、自分はあくまで「趣味」として「女装」している「女装男子」なのであり、「女装がしたい」と考える自分の欲望は異常なものではないのだと、正当化を試みたのである。自分は「異常な男子」ではなく、「正常な女装男子」なのだと。
そういう経験があるので、「女装男子」というカテゴリが誰かに必要とされていて、それを自認する人がいるのは全く不思議に思わないし、そうした人々にとって「女装コンテスト」が自らを肯定する場になるのなら、それはいい機会になるのではないかと思う。一方で、自分がそうであったように、そこをゴールにしてしまう必要もない。自分がしたい自己提示を受け入れてくれる場を探し、既成事実を作り、その場で認識を共有してしまえば、そこでは常に「正常」でいられるのである。そういうプロセスを踏み続けなければいけない社会だけど、プロセスを踏む自由はある。その自由のある社会は良い社会だと思う*2。