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はじめに
第11章を読もうとしたら、第5章のエスノメソドロジーの話も読んだ方がええで的なことが書いてあったので、こっちにしました。
出典
江原由美子・山崎敬一編『ジェンダーと社会理論』(2006, 有斐閣)所収
第5章 山崎敬一「ジェンダーとエスノメソドロジー――『オールドミス』と『キャリアウーマン』」
・かぎ括弧引用の直後に丸括弧の無いものは、坂本の地の文章とします。
・坂本の地の文章で、三点リーダ2つ(……)は省略を表します。
・カンマ(,)は読点(、)に置き換えています。
[pp.65-74]
第5章 山崎敬一「ジェンダーとエスノメソドロジー――『オールドミス』と『キャリアウーマン』」
[pp.65-66]
1 エスノメソドロジーとは何か
[p.65]
エスノメソドロジー(ethnomethodology)とは、「自分たちのの日常的な活動や説明について組織だった知識をもち、そうした活動や説明をいかにして行うかについての自分たち自身の方法論をもっている人びと(=ethno, 社会成員)の方法論(methodology)についての研究である。
[pp.65-66]
エスノメソドロジーの視点において、人びとの日常的な活動や説明のもつ特性とは、かれらは活動を通して互いにその状況や活動を説明しあっているということである。エスノメソドロジー創始者のガーフィンケルは、『エスノメソドロジー研究』の中で次のように述べる。
[p.66]
「これらの研究において中心的に推奨されていることは、社会成員が、組織化された日常的な事柄からなるさまざまな場面を生み出したり管理したりするのに用いる活動は、それぞれの場面を社会成員が「説明可能」にするために用いるさまざまな手続きと、重なりあっているということである。こうした説明的実践及び説明の「相互反映的な」「受肉化された」性格が、ここで推奨されていることの根幹部分を構成している(Garfinkel 1967)*1」。
人びとの説明が状況依存的であることを、これまでの社会科学は問題視していたのに対し、ガーフィンケルはその状況依存性それ自体が「独自の秩序をもった現象」であり、その「秩序をもった現象」こそが、エスノメソドロジーの探求課題であるとした。ガーフィンケルは次のように述べる。
「ここで説明可能という言葉を使うとき、私の関心は次のことに向けられている。すなわち、説明可能であるということは、観察可能で報告可能であるということである。また、社会成員にとって、見て話すという状況づけられた実践として利用可能であるということである。そのような実践は、いつまでも終わりなく続き、つねに進行中であり、またそれぞれの場面に依存して達成されている(Garfinkel 1967)*2」。
[pp.66-69]
2 相互反映性と状況依存性
[pp.66-67]
「説明」と「状況依存性」の概念がわかりづらいので、「人びとが状況をつねに説明していることと、その説明が状況に依存しているということを図形の例をもとに示してみよう(Zimmerman 1974)*3」*4。
[p.67]
図1-1において、人びとは「図形をただ見るだけでなく、言葉を用いてその図形に対する説明を加える」。「でっぱり」という説明が加えられた図1-2において、他の人は図形に加えられた説明をも同時に見る。状況依存性とは、「でっぱり」という言葉による説明のもつ意味が状況(図形)に依存していることである。この状況依存性によって、人びとは「でっぱり」の意味を、ともに提示された状況(図形)から理解できるし、また、「でっぱり」という言葉から、図形が前に出っ張った立体物であるという状況を理解できる。「ガーフィンケルは、このような仕方で「説明」と「状況」が互いに結びつき、互いを精密につくりあげていることを「相互反映性」と呼ぶ」。
ただし、人びとがある説明(「でっぱり」)をある状況(図形)なしにすることはない。
[pp.67-68]
また、図1-2の状況(図形)に対する他の適切な説明もありうるし*5、図1-3のように「ひっこみ」という説明を加えれば、人びとは「ひっこみ」を適切な説明として理解し、図1-2とはまったく違った立体物の状況を見ることになる。
[p.68]
人びとは、説明と状況における「相互反映性」という「独自の秩序をもった現象」に無自覚に従っていることは確かであるが、「相互反映性」という現象に関心は向けないだろう。これまでの社会科学も、「「相互反映性」や「状況依存性」を人びとの日常の説明の欠陥として捉え」、それらをとして解明の対象にしてこなかった。ガーフィンケルは、こうした現象に特定の研究関心を向けることを「エスノメソドロジー的無関心」と呼んだ。「会話分析」「成員カテゴリー化」といった研究法はこうした研究関心を共有している。
たとえば、「会話分析」が関心を寄せる「呼びかけ」と「応答」、「質問」と「答え」といった、 E. シェグロフとサックスが「隣接対」(りんせつつい)と呼ぶ2つの発話が対となった発話は、単に2つの発話が物理的に連続するのではない。最初の発話(「呼びかけ」)が次の発話の解釈(「呼びかけに対する応答」)の枠組み(=状況)を構成するし、次の発話(「応答」)はその枠組み(=状況)で解釈されると同時に、前の発話の意味(「自分に対する呼びかけ」)についての発話者の説明や解釈でもある。これは相互反映的な組織のされ方であり(「(こうした問題については、Heritage〔1984〕*6、山崎〔2004〕*7を参照)」)、「会話分析が扱うのは、こうした会話の時間的かつ継起的な組織である」。
[pp.69-71]
3 ホットローダー――革命的カテゴリー
[p.70]
サックスによれば、社会成員をカテゴリー化する「成員カテゴリー」には2種類あり、カテゴリー化される社会成員自身が管理するカテゴリーと、社会成員以外の者が管理するカテゴリーである。
例) 「エベレスト」という山の名前は植民地支配時代のイギリス人の名前であり、現地人が使用、管理する名前ではなかった。植民地支配が終わり、ナショナリズムや民族意識の高まりとともに、現地人が使用、管理していた「チョモランマ」という名前で呼ぶ動きが出てきた。
例) 車を運転する若者に対して使われる成員カテゴリーには、「ホットローダー」と「ティーンエイジャー・ドライバー」の2種類がある。大人や親からの自立を求める若者は、大人や親によって管理される「ティーンエイジャー」という成員カテゴリーを使わず、「ホットローダー」という自分達で管理するカテゴリーを使用することで、大人による管理からの脱出を企てる*8。
[p.69]
「ホットローダーとは街頭でドラッグレース(たとえば信号から電柱までどちらが速いかを競うレース。現在では専用のコースでのレースも行われている。……)を行う若者のことである。また、「ホットロッド」とは、ドラッグレース用に改造された車、およびドラッグレース専用の車である」。
[pp.69-71]
ホットローダーはホットローダーらしい格好をして、彼らの基準で「ホットロッド」らしい車に乗るやつとだけレースをする。ホットローダーは集団を作らないが、誰がその街で一番速いホットローダーなのかを知っている。
ある若者は、「ティーンエイジャー・ドライバー」に人から見えるようにすれば警察には捕まらないと言うが、別の若者は「ステーションワゴン」に乗って捕まるやつはそういないと指摘する。1960年代のアメリカにおいて「お母さんの車」というイメージを伴っていた「ステーションワゴン」に乗るのは、「お母さんや大人に対して従順な「ティーンエイジャー・ドライバー」であると、人から見られてしまう可能性がある」。「ステーションワゴン」に乗ったドライバーとレースをしないと言うことは、仲間が大人に従順な「ティーンエイジャー・ドライバー」として見られぬよう守ることを意味するのである。
[p.71]
「「カテゴリー」は、自分たちがどう周りから見られるかということと関連している。さらにカテゴリーは、自分たちが周りの世界をどう見るかということとも関連している」。
[pp.71-7]
4 「オールドミス」と「キャリアウーマン」
◇ ジェンダーとカテゴリー
「若者と大人」、「男と女」という成員カテゴリー化装置のひとつの違いは、前者が成長によるカテゴリーの移行が含まれるのに対し、後者はカテゴリーの移行はふつうないものと考えられているという点である。
ガーフィンケルは、男から女への性別移行を成し遂げたアグネスという人のケースの分析を通して、人びとの性別カテゴリーに関する相互行為を調べている。
「女」の外見のアグネスが「女」としての過去(子どものときなど)を質問された時は、相手に同じ質問を聞き返し、その答えに「私も同じだった」と追随する戦略を取った。こうして「女」という成員カテゴリーの人は「女」としての過去の歴史をもつという人びとの想定を、相互行為の中で保ち続け、「ガーフィンケルは、こうしたアグネスの、相互行為の中で「女」として生き続けるための作業を、「通過作業」(passing)と呼んだ。
◇ オールドミスとキャリアウーマン
「オールドミス」は、「かつては会社で働く、ある程度の年齢以上の結婚をしていない女性に対して広く与えられたカテゴリー」で、「働く女性」自身ではなく「男性社会」や「会社」が管理していた。「女性はある程度の年齢になったら結婚して家庭に入るべきである」という「男性社会」の規範的文化のもと、「オールドミス」と見られることは、「男性社会」や「会社」から「結婚できない女性」「会社をやめてほしい人」として見られることにつながった。今では、同じ会社で働く若い女性たちが使う「お局様」というカテゴリーとして生き残っている。
1980年代くらいから、働く女性みずからが管理する「キャリアウーマン」というカテゴリーが使用された。キャリアウーマンはホットローダー同様に集団を作らないが、誰が会社で一番すごいキャリアウーマンかはその会社で働く女性はみな知っているし、自分たちがどう見られるかを自分たちで管理する。
しかし、「ふつうの女性」が歳を取り続けてもなお「キャリアウーマン」であり続けるのは現実として難しいし、ふつうの女性は「オールドミス」や「お局様」になるという現実の裏返しに過ぎない。結局、それらのカテゴリーは「キャリアウーマン」に代替されず、それらを温存させてしまう。それゆえまた、「「男性社会」や「会社」の規範的文化を「ふつうの*9女性はある程度の年齢になったら結婚して家庭に入るべきである」という仕方で生き残らせてしまう」。
◇ 結 語
「成員が自分たちに与える成員カテゴリーの変化は、自分たちが状況をどう見るかということや、自分たちが状況においてどう見られるかということも変化させる。この変化の仕組みを見るためには、成員カテゴリー自体の仕組みや成員カテゴリーが状況に適用される仕組みについてさらに考える必要があるだろう(この問題については第11章本論2や、山崎敬一〔1994〕*10;山崎敬一〔2004〕*11を参照)」。
おわりに
第4章のゴッフマンの理論を読んだ後だとゴッフマンっぽい話だなあという印象が否めませんが、その辺の関係性みたいなのが説明されないので調べたくなりました。間違いなく第4章を読んでから第5章は読むべきでしょう。
あと「人びと」という言葉の意味合いが宙に浮いた印象を受けました。それは元々の「ethno」の意味についてあまり具体的に踏み込まれなかったからでしょう。少なくとも、無菌室や温室の中に管理された「人びと」でない、広範な生活実態をもっている「人びと」を指しているのでしょうけど。それはホットローダーだったり、働く女性だったりするのだと。やはり、具体的な対象があると分かりやすいですね。
次は第11章。
*1:Garfinkel, H., 1967, Studies in Ethnomethodology, Prentice-Hall.(=1987, 山田富秋ほか編訳『エスノメソドロジー――社会学的思考の解体』せりか書房に抄訳収載)
*2:同上
*3:Zimmerman, D. H., 1974, "Preface," D. L. Wieder ed., Language and Reality, Mouton, 9-26. Z. O 号, 1954,「読者だより」『KK通信』10月号, 9
*4:とあるけど、図形の例が Zimmerman のものってことでいいんだろうか。以下の図1-1, 図1-2 は p.67 の図を再現したんだけど、これが引用されたものならば、普通は「Zimmerman の図を加工して引用」とか普通は書くはずだが、そういう記述が無いので、ここでは Garfinkel が Zimmerman の図形の例の意図を汲みつつ、オリジナルに示した図であると考えることにしよう。どちらにせよ、本筋の説明に支障はないが。
*5:「ぽこっ」とか?
*6:Heritage, J., 1984, Garfinkel and Ethnomethodology, Polity Press.
*7:山崎敬一、2004、『社会理論としてのエスノメソドロジー』ハーベスト社
*8:これがカテゴリーの「革命的」たるゆえんであろう
*9:「ふつうの」に著者による中黒
*10:山崎敬一、1994、『美貌の陥穽――セクシュアリティのエスノメソドロジー』ハーベスト社
*11:同上