かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

短編映画『片袖の魚』感想(ネタバレ有)

10/3(日)、浜松シネマイーラで短編映画『片袖の魚』を観ました。
ネタバレ注意。

あらすじ

トランスジェンダー女性の新谷ひかり(イシヅカユウ)は、ときに周囲の人々とのあいだに言いようのない壁を感じながらも、友人で同じくトランスジェンダー女性の千秋(広畑りか)をはじめ上司である中山(原日出子)や同僚の辻(猪狩ともか)ら理解者に恵まれ、会社員として働きながら東京で一人暮らしをしている。ある日、出張で故郷の町へと出向くことが決まる。ふとよぎる過去の記憶。ひかりは、高校時代に同級生だった久田敬(黒住尚生)に、いまの自分の姿を見てほしいと考え、勇気をふり絞って連絡をするのだがーー。」
出典:『点から線へ トランスジェンダーの”いま”を越えて 映画『片袖の魚』より』p.5

感想

作中いくつかの場面で、ひかりが他の人物に言葉を掛けられた後「ごぼごぼ」という水中音が挿入されています。外回り先でトイレを使いますと言うひかりに対して、お客さんが「だれでもトイレは3階です」と返答するとき。別の営業先で仕事の話を進めるひかりに対して、お客さんが「もしかして新谷さんって男性?」と尋ねるとき。ひかりはほんの少しの間の後、動揺を隠すかのように相槌を打ったり自分の心と体のことを説明したりします。

こうした場面を見るたびに私は息の詰まる感覚を覚えていることに気がついて、はっとしました。水中音は、ひかりが「溺れている」感覚に襲われていることを表現しているのではないか? 私も当事者として人から投げかけられた言葉に息がつまる感覚になった経験が何度もあるのですが、この感覚の比喩として「溺れている」という表現は驚くほどぴったりだったのです。

私の推測は演出上のねらいなのか上映後のサイン会で東海林監督に尋ねると、YESという回答をいただくことができました。私は映画を通して私の経験を言語化するきっかけを得ることができて良かったです、と東海林監督にお礼を伝えました。

私個人の話でイシヅカユウさんとは同郷で世代も近いということもあり、映画を観ることで今後の生き方についてヒントが発見できたら良いかもしれないと思いながら、ひかりに自分を意識的に重ね合わせて観ました。人に会う仕事をして傷ついたら嫌だなとか、昔の同窓生には会ってみたいけど丁寧に打ち合わせしないと嫌な気分で終わるんだろうなとか、そして究極的には、私はこういう体験をした人じゃなくて良かったな、でも最後に前向いて歩けていて安心したけどこれグッドエンドってことで考えて大丈夫なのかなとか、ぐるぐる考えてました。

要するに、答えのない中で当事者は溺れる経験をしていて、そこにお手軽インスタントな咀嚼しやすい回答があると思うなよと伝えることが、自分が非当事者に勧める際のねらいになってくるのだと思います。考えてもらう映画ですね。