かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

補足:ガバ研が島宇宙化に立ち向かうために

はじめに

昨晩投稿した記事の以下の内容について補足を行いたいと思います。

現実のネットのコミュニティはサービスやフォロー関係によって細分化されています。ネットの技術はみんなをひとつにまとめたのではなくリアルそのままを再現したに過ぎなかったのです。実際に毎日のようにどこかのコミュニティや界隈の間でディスコミュニケーションが発生して炎上に発展することもあります。まして発言しないサイレント・マジョリティや、そもそもネットを見ない人々の言論を無視してしまうことになります。

補足

既存の言及

人々のコミュニティが細分化されるという話は、現代思想史のなかでも語られてきました。例えば思想家の東浩紀氏は次のように述べています。

「七〇年代以降、サブカルチャーの進展にともない価値観は急速に相対化され、結果として各趣味を共有する人々はきわめて閉鎖的なグループを形成し(オタク化)、それらグループ間のコミュニケーションは急速に困難になっていった。ポストモダンの人々は共通の文化的基盤をもたず、社会の全体性をイメージするのはかつてなく難しい。九〇年代にはその過程がさらに過激化した。いまや特定のモードが文化的先端を僭称することはできない。」東浩紀『郵便的不安たち』(朝日新聞社、1999)

またこちらは引用が難しいので要約にかえますが、社会学者の宮台真司氏は同じ価値観を持った人々で作られる場を「島宇宙」と呼び、あらゆる価値観が相対化されるなかで多くのコミュニティが並列的に存在して互いのコミュニケーションが成立しなくなる一連の状況を「島宇宙化」と言っています(宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社、1996))。

さらにこちらは評論家の荻上チキ氏と宇野常寛氏のトークを掲載したブログ記事からの参照になりますが、宇野氏は「セカイ系」をめぐる論壇状況を「島宇宙化」と揶揄して次のように発言しています。

東さんが「狭義のセカイ系は宇野によって相対化されたけど広義のセカイ系問題は残っている」と言っているけれど、それならセカイ系という言葉を使うべきじゃないですよ。それに、数十年前からあった問題について、狭義のセカイ系が何か特別なアプローチをしていたわけでもないですからね。まだそこで、本質的なアプローチが狭義のセカイ系によって行われていたというのであれば意味があるのでしょうけれど、そうではない。島宇宙化した一部の論壇のコンプレックスによって過剰に評価されたということがあるだけです。ここについては「ゼロ年代の想像力」本編をぜひ読んでください。必ず本編にあたってくださいね、ネット論壇では書いていないことを書いてあることにされているので(笑)。

ガバ研は島宇宙化とどう向き合ってどうするのか

ここまで紹介しておいてなんですが、ボクが評論の世界を思い浮かべた時に東氏や宮台氏、荻上氏、宇野氏といった面々を、いや面々しか思い浮かべられないのも島宇宙的な視野狭窄の結果と言わざるを得ないのかなと不安になるわけです。実際ググってそれ以外の人々が引っかかって興味深い知見を示していたとしても名前を見て「ふーん、まあいいや」という発想が生じてしまう人は多いのではないでしょうか。

もうちょっと具体的な話に置き換えてみると、リアルに議論する相手がいてお互いに東氏や宮台氏の思想が好き(信者という表現は控えます)で、何を議論するにしても結局東氏や宮台氏のような発想に引っ張られていく。それは一種のリスペクトなんでしょうけどあえて突き放していくアンチリスペクト的な勇気もまた必要で、それが島宇宙化したコミュニティを解体して再構築するための道筋だと思います。

結局のところ、島宇宙化は引き起こされざるを得ない状況のなかで生きていくしかないので、島そのものの衰退を防ぐためには定期的・習慣的な島宇宙のスクラップ&リビルドが大事なんじゃないかと思います。そしてそれに欠かせないのは島宇宙同士の緩やかな連帯を許容しながら島宇宙同士の巨大化を目指していくことだと思います。ガバナンス研究会もメンバーが固定化して話題や思想や考え方が似通ってきてしまっている現状があるので、活動としても場としても公開性・公共性・透明性を大事にして中身に流動性を持たせることで議論を活性化していければいいなと思っています。