かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

第17羽 「チノちゃんと学ぶコーヒーハウス」

これは ごちうさ住民 Advent Calendar 2014 の17日目の記事です。
 
現在はまだ12月17日123時ですからまだセーフですね!
嘘ですメッチャ遅刻してごめんなさい。
 
 
さて、内容はコーヒーに関するコラムと作品の簡単な批評です。
前半と後半で内容の違うものが並んでるのは途中で書きたいものが変わったからです。
 
 
 

コーヒーハウスの起源

 
13世紀半ばごろの禁酒のイスラム教圏では、コーヒーは酒の代わりの刺激物として飲まれ、僧侶の気付けの飲み物として流行った後に一般に普及しました。まるでエナドリみたいですね。
 
でも実際エナドリっぽいんですよ。
間違えました。
その後コーヒーはトルコに伝わり、1554年(1551年説もある)トルコ・コンスタンティノープルに世界最初とされるコーヒーハウスが開店します。
 
17世紀前後の大航海時代に差し掛かると大勢のヨーロッパ人が東方を目指し、不思議な香りのする黒い液体は奇妙なもの、エスニックな飲み物として好まれました。
 
 
もちろん、キリスト教圏でもコーヒーの是非をめぐって論争が起こりましたが、ローマ教皇クレメント八世(@Asyley_)がコーヒーを飲んで洗礼を授けたことで一般化することになります。
 
トルコにはコーヒーの飲み場である「コファ・ハウス(coffa-house)」が存在しましたが、コーヒーが欧州に伝わるのと同時に、「コーヒーハウス」が各地に建てられていきました。
 
特に、17世紀中ごろのイギリスで隆盛したコーヒーハウスは、今日のカフェの起源・モデルとしてよく参照されています。
 
それでは、当時のコーヒーハウスの様子の詳細を見ていきましょう。
 
 

イギリスのコーヒーハウス

 
当時のイギリスのコーヒーハウスが栄えたのはいくつかの理由がありますが、そのひとつは誰もが身分・階級に関わらず自由に出入りできたことにあります。
 
しかし、それは同時に不審な人物の出入りをも許す事にもなったために、批判の対象となったコーヒーハウスは一部では利用規則が設けられるようになります。
 
たとえば、喧嘩や宗教に関する議論、サイコロやトランプによる賭博を禁じ、違反した客からは罰金を取ることもあったといいます。この利用規則によって、ある程度の秩序が保たれたといいます。
 
そして、もう一つの大きな規則として女子禁制がありました。当時のコーヒーハウスを描いたとされる絵画には、女性は左端に給仕がいるのみです。(画像は松岡正剛氏のページより拝借しました)

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このように、必ずしもパブリックではなかったコーヒーハウスでしたが、イギリスの政治、経済、文化の拠点としてその役割を担うことにもなっていきます。
 
もっと詳細な知識を得たい人は、参考文献を読むのがおすすめです。
 
 
参考文献:小林章夫『コーヒー・ハウス』(講談社、2000年) 
 
コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

コーヒー・ハウス (講談社学術文庫)

 

 

 

 

簡単な批評 

 
「ごちうさ」を観るとなんだかこころがぴょんぴょんします。かわいいのは当たり前です。チノちゃん結婚してくれ頼む。あ~~~~~~~~~^^^^^^ ・・・・・・「何も考えずに見れるアニメ」という言葉をけしからんと思っていますが、このアニメはなぜこんなに楽な気分で観れるんだろう。そんな自分が許せくなったので、書いてみます。
 
 
ごちうさでは、基本的に彼女たちだけでシーンが展開され、大人が介入することは青山ブルーマウンテン回を除いて滅多にありません。それは、ココアたちがフルール・ド・ラパンや甘兎庵を訪れるシーンや、シャロのクレープ屋台のバイトのシーンでもそうです。
 
ごちうさ世界では、子供に対する労働能力が信頼されているか、子供を労働させても特段問題の起こらない社会秩序が保たれていると想像することができます。私達の生きる現実に即して言えば、子供しか見当たらない職場は不穏で奇妙に映りますが、相対的に私達の現実での職場観が奇妙であるとも言えます。
 
 
ごちうさには不思議な生き方をする人がいます。青山ブルーマウンテンさんです。
 
「ラビットハウス」の常連だった彼女は小説家としてデビューしますが、作中で一度失職して「ラビットハウス」のバーテンダーに雇われた後に復職し、バーテンダーも両立していきます。
 
ごちうさでは、仕事を得たり失ったりする過程を直接的には描かれず、キャラクター同士のやり取りのなかで間接的に明かされます。そのなかで、青山さんは常に飄々としたキャラを保ちながら、軽やかに社会的立場を乗り換えていきます。青山ブルーマウンテンどころか池袋サンシャインです。
 
読む/観る人によっては、これを描いた人間は実社会を舐めていると捉えるかもしれません。でも、それは私達が融通の効かない、流動的でない社会に生きているからこそ出てくる判断ではないでしょうか。青山さんの生き方はそう語りかけてくるように感じます。
 
 

まとめ 

 
ごちうさを観ると、こころがぴょんぴょんして何も考えなくていいような気分になります。それは決して批評の放棄を意味するものではありません。そこに社会の詳細を知らなくても快適に過ごせる、気持ちよく生きていける社会の理想が描かれているからです。
 
 
 
チノちゃんに「お兄ちゃんのねぼすけ」って百万回怒られた後に拗ねたチノちゃんを優しく抱きしめてあげたい。
 
 
 
明日の投稿は @tanakh さんです。