昨日の斎藤さんのコラムじゃないが、ちきりんも曽野綾子と同じ“キャラで免責されている人”だよね。しかも自分から進んでキャラ化(おちゃらけ社会派)することで批判から逃げてる。言論人として最低だと思う。 / “ちきりん9年前の自ブログ記…” http://t.co/QASYhdI3Vv
— ピザ(遺伝子組み換えでない) (@inumash) 2015, 2月 25
ちきりん氏のTwitterブロック騒動とか見ながら、あえてちきりん氏を擁護するとどうなるんだろうと考えてる。正直に言って、「ちきりんってこういう奴だよね」というキャラ化をして、やってることはただのキャラ消費なのに、問題をキャラから理解した気になってるだけの人も、少なくない気がするし、ハマりやすい誤りだと思う。
ちきりん氏に限らず、たまに人物を対象に批判しているツイートが流れてきて、周囲の様子をじっと見ていると、「この人はこういう人だから」っていう意見がしばしば出てくる。じゃあどういう人なんだよ説明しろと。kenokabe氏のケースのように、本人と対話した上で「ダメだこりゃ…」というやりとりが見られるならまだいいのだけど…。
ここまで書いて、ちきりん氏擁護になっていないことに気づく。
これだけ言いたいのは、ちきりん氏を批判している人は、果たしてちきりん氏の行動の意図を汲む気はあるのだろうか、ということ。
「その人が本当に言いたいことを理解するつもりで意見を聞き
その言いたいことを結論づける上で根拠や理由に不十分な部分があるなら
それは指摘して『あげる』必要があるんです」
「ちきりんはこういうやつだ」という安易なキャラ化は、ちきりん氏を擁護する発想を殺してしまいかねない。結果として、彼女のネットでの行動にすぐさま負の意味付けがなされる。「なぜブロックしたのか」に、否定的な見解しか生まれない。どこが公正な議論なんだろう…と首をかしげてしまう。「でも、なんとなくそうじゃない?」いやいやいや…。
もちろん、キャラ化は意思疎通を楽という側面もあるけど、それはお互いに十分に問題共有された後に「あぁこの人○○だわ」となるのであって、そうでもない人が「この人○○なんだね」と納得するのは危険だと思う。キャラ化は楽だけど、楽だけにこらえた方がいい。これは努力するしかない。
書きながら、chomado氏のことを思い出した。彼女が何か言うたび「chomado姫が○○って言ったんだけど、~~~」みたいな「姫キャラ」化して揶揄される時期があったなーと。あれも見ててもにょってた。
今回はあんまり気分が良くなる話ができなかったし、キャラ化に否定的な意見しか出せていないので、次に話すときは正の側面の話がしたい。みんなが幸せになるキャラ化って実現できるのかな…。