かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

WHOの勧告があまりにも馬鹿馬鹿しいので文章を書いた。

WHOの勧告があまりにも馬鹿馬鹿しいので文章を書いた。

 

 

「WHOはああ言っているが、おれはそんなものを知らないように読者に対して振る舞うのは自由だよな」と言ってキャラクターが喫煙を始める作品は成人指定になるのかどうか。

作品は作者の意思の反映ではなくて、キャラクターの自律的思考を作者が媒介したものだと思う。よく作品内の史実や常識の説明の間違いを目ざとく見つけて指摘する人がいるけど、それが作者ではなくキャラクターの誤りとしてはなかなか考えられにくい。

ドラえもん藤子・F・不二雄先生が描いたからたまたまああいう図柄になったのであって、藤子不二雄A氏が描けば信楽焼の姿だったかもしれないし、誰もほんとうのドラえもんの姿などわからない。

それでも藤子・F・不二雄先生のドラえもんがほんとうの姿として支持を集めるのは、貨幣のように、読者がそう信じることによって成立している。作品、キャラクターは読者とのインタラクションによって生かされている。

方倉陽二を信じる読者は方倉陽二を信じればよいが、公式設定は藤子・F・不二雄先生と方倉陽二氏のアイデアの持ち寄りで決められてきた経緯もある。その場合、個人という単位を使って事実を区切るのはとても難しいことになってくる。

そうした徹底的な一貫性と正しさという外的な事情に揉まれたキャラクターの生存戦略は、きっと自分の設定を間違えるとか忘れるという事態である。キャラは平気でころころ変わるし、突然都合よく何かを思い出すし、尺が足りないなどと言い出す。

最近の現代口語演劇は面白くて、伏線めいた台詞を役者に言わせて大風呂敷を広げておきながら、残り時間が少なくなったところで一斉に伏線の回収を始めさせ、ついにはそれすらかなわずに演劇そのものが崩壊してしまうのだそうだ。

いつでも自信に満ち溢れながら自身の設定を語ってくれるキャラクターにリアリティがあるのだろうか。演出するからこそキャラはリアルなんだ。喫煙しちゃうよ自分は、って言ってしまえばいいんだ。