かすてらすねお。

見聞録的ななにか。

親に対立的な子どものトランス当事者はどういう心理なのか

というものを最近考えるようになっています。

親は子の味方になりたくて熱心に勉強しているけれど、子から見た関係性は良好ではないというケースがあります。特定につながらないように観測事例は詳しく書かないけど、そういうのを一組知っているのです。まあ、一個の事例で何語るんだよ、などと言わずに。

もちろん仲良しという親子だっていますけど、私はずっと、その子どもの当事者が親に協力的な意思があるにもかかわらず、親に対立的なのはなぜだろうと考えていました。当事者が親を快く思わない気持ちは、私も当事者として直感的にわかるんですが、なぜなのかはよく考えたことがありませんでした。

私の仮説を書きます。

生まれた性別に違和感を持つ子どもは、親に育てられる過程で内面に葛藤が生じます。多くの場合は親が選択する持ち物とか遊び道具とか服装とかの選択とそれによる社会的な性別の再宣言が、子の内面的な自覚と齟齬を起こすのです。子に主体的な自己決定の機会が無いわけではないですが、物心つく以前から育てる以上は親のそれが子に経験されることは避けられません。挙げてもきりのない皺が刻み込まれるような経験と記憶の束です。

そういう親が味方になると言い出しても、親がしたことの何が子にとって問題だったのかを理解しているのか、不安になるのだと思います。人間の性別は多元的で性自認があって、という基礎知識の問題とは別に、親を要因として性別の自己決定ができなかったことに関する経験と記憶の問題があるのだと思います。

親は「これから」が問題だと思ってるけど、実は子は「これまで」も問題だと思っている。話したところで伝わるかどうかも分からないし、関係をこじらせたくない。熱意を持った親にそんな事を言うと逆上されてややこしくなるのではないか。それで面倒臭いことになるならいっそ触れないほうがましだ。表面的には良好な関係に見えるだろうが、自分はそんなことは思っちゃいない。

……と私の思いも入ってしまいましたが、こういうところじゃないかなぁと思います。私は、なんもかんも無かったことにして仲良しこよしするなんてちょっと出来ないです。思い切りが悪いのではなくて、通すべき筋を通せないことに不満があるのです。